うつなわたしのブログ

年々鬱々な日記帳

複雑な家庭、女の群れ、宗教と個人と

殺意かなあ。憎悪かなあ。呪いかなあ。ギャップもあったのかもしれないけれども、なんと形容していいのか、あの目は知っている気がした。子を持つ親の、破壊者たちから子を守るための、妻を守るための、いや、それだけではなく、心の底から湧き上がる、それも日々感じていること、人生の暗闇、復讐すべき敵、いやれらとも微妙に違う気がする。

メデューサか、オディロンルドンの目か、決して普段は人に見せない顔だろうなあ。おそらく、それを知る人はいないのではないかなとおもう。わたしが、そういう目をさせるような仕草や目を、先にしてしまったのかもしれない。

神経質に、腫れ物に触るような仕草で、かつ仕事と使命感でそれをしているという物腰が必要であったのだろう。わたしのなかに、侮辱をみつけたのかもしれない。無知ではなく、知りながらの、つまり面白半分のような気取りと受け取られたのかもしれない。もし、そうであればあの目は納得がいく。わたしのなかに、面白半分であり、相手方への敬意にかけており、軽率であったという自覚も多少はあるなかでの出来事である。目の中にそのような怒りをたたえながら、目を見開き、見据えつつ目で、いや、その全身で威圧する人の心の機微は、わかるような気がする。闇がある。家族の闇があるなと思った。まったく普通ではない。むしろ、わたしに親和性がある方の闇。決して軽口を叩いてはいけない闇である。わたし以外のものたちは、おのおのに軽口をもっともそうにそれだと述べていたが、あの目の意味を理解できるような神経を持ち合わせている人間はとうぜん、いない。そんなことはわかっているからこそ、その目をらできる人と、その目の意味について思い巡らすことができるわたし、わたしとその目だけが錯綜する世界。出口は塞がれてしまった。この恐怖を紐解くことに疲れてはいけない。学ぶべきことがたくさんあるはずである。心の奥の感触に、この違和感、この不安から目を背けてはいけない。あらゆるお世辞、直感、自己肯定感を高めてくれるスパイスなど、そんなものならばあらかたを吹き飛ばし、地獄の底に突き落とすようなパワーがある。人の目というのはそういうものかもしれない。メッセージが言葉ではないからないがしろにしていいのか?そんなことはない。間違ってはいけない。仕草であろうと、目線であろうと、その人が発するメッセージの意味を読み取らなければならない。メッセージに対して理性的であることを放棄してはいけない。それだけではなく、その磁場を、ただ快適な場にするような誘惑に屈してはいけない。あの目は、釘をさすというこであったようにも捉えることができるかもしれない。警告文である。それも、最後通知であると思う。そして、それは適切であると思う。わたしはまたしても思い知らされる。自分の行動の不適切を。結果的にもっとも知的に劣るものは、わたしであるということができる。目的なく、計算なく作られた砂上の楼閣である。