象徴的な死、スタートリビング。
ちょうどいいタイミングに、エンドカフェがあって、ちょうどいいタイミングで、blue noteがあって…。
行動原理が受け身なのは、他人の意見に覆われているからだ。自分で判断することが出来ないのは、自分の人生を創る勇気がないからだ。
きっかけのために、無数のノート、無数の本、無数の時間を費やした。けれども、私のノートは他人のノート、考えることは他人の考え、モチベーションも他人からのインスピレーション(そもそもインスピレーションなどされていない)であった。
これはつまり、他人を介したことになんら価値をもたないということがはっきりしているのである。人のアート、人の話、人の営為できっかけを作ろうとしても永久に始まらない。それどころか、他人の意思に絡め取られて、自分の本意が見えなくなる、聞こえなくなる。
ベースメントを無にしたのは正解。
無にして無を感じるならばなお正解。
有のために、あれやらこらやらと画策しかけたが、それらも実現しなくて正解だった。
なにせ、何もないのだから無なのは当たり前。さもなにかしらの有であるかのように振舞っていたということがわかっただけである。
ベースメントは無で良い。
息抜きと、調べ物のための設備であれば、それでいい。そこから始めていく。
象徴的な死の形になっている。
あの異常にしつこい電話も。
ちょっとしたしつこい電話も。
あの、悲しくなるような態度も。
どうでもよくなる感覚全て。
結果が分かりきっていることに無駄な割くことの、その誘惑を、それに意味をつけること、無駄だと知りつつ縋りつこうとする根性。
今日はちょうど、全て揃って役満の日。
なので、the endでblue noteはベストなタイミングである。きっかけは、これだ。