うつなわたしのブログ

年々鬱々な日記帳

人と人

人付き合いに幻想を抱いていたことは認めます。幻想がどのように作られたものかは、定かではないけれども、それらはわたし自身の経験によるものである。

極めて自然に人と付き合っていたと言える頃は、記憶すらも曖昧な5歳以下の頃ではないかと思われる。記憶が曖昧であると同時に記憶の中の5歳以下のワタシ自身は自我がまるでないようだ。頭が悪いとか良いとかよりも低位の時限のこと、もやのような曖昧模糊のワタシは一体何を考えて世界を見ていたのだろうか。

しかしながら幼稚園の頃には御し難い自意識があったのは確かで、それのせいで先生から逃げ、友達からも逃げていたようにおもう。

6歳ごろからわたしのなかの幻想は走り始めていたようだ。わたしにとって、家の中も外も、世界は全て恐ろしいものに思えていたのかもしれない。それらから逃げようとしていた。

ありのままの人間と関わること、その勇気というものを身につけることなくわたしは大人になったのだと思う。最近はそのことがより決定的なことのようにおもえて、その遥かな喪失を嘆くことすらできず、ただただ呆然とするしかない。

幻想の解体は可能か?

解体をしてゆくためには、まず幻想の構造を理解しなければならないだろう。

わたしは人を善いものであると考えている節があるので、初対面では相手に大いに期待をする。もしかしたら、と思うからである。

しかしながら人間というものは決して善いものだと言い切れるようなものではない、ということが紛れも無く真実である。

そして人は極めて自己中心的であり、極めて自己のルールに忠実に則って生きているものであるということである。

これらの真実だけでも、わたしの幻想の大部分を破壊することができる。つまり目を輝かせながら人の顔を覗き込むことを不必要にしなくてもよいということだ。

良い悪いという価値判断も幻想である。ここに落とし穴がある。何が良くて、何が悪いのか?それはそれぞれの価値によって変わる。

もっとシンプルであって、何が嫌いで何が好きか、何がカンに触るのか、何が心地よさを引き起こすのか、何が孤独を引き出すのか。

それらは全てわたしの感性であって、世界や人々の感性ではない。

ヒトがどのように挨拶するのか、どのように目をそらすのか、どのように笑うのか、どのように指を顔に這わせるのか、どのように立つのか、どのようにおせじをいうのか、どのように話題を振るのか、どのように時間を気にかけるのか、どのようにもてなすのか、どのように次回の予定をたてるのか、どのように別れるのか、どのように相手を理解するのか…。

人と相対するときに生じる相克において、わたしは数限りのない発生の好き嫌いを判断し、あらゆる不自然さや自然な振る舞いを裁断する。

帰りたいと思ったり、とどまりたいと思ったり、友達になりたいと思ったり、親しくなりたいと思ったり、利用できるかもしれないと思ったり、抱えておこうとするかもしれないし、崇拝するかもしれないし、さわやかになるかもしれないし、高揚するかもしらないし、虚脱を感じるかもしれない。

これらのあらゆることをわたしは感じなければならない。わたにの中にある価値軸が振り子のように動き、コンパスの針のようにそれらを無意識において規定しようとする。それは紛れも無く脳の働きである。自分を保つ働きでもあり、あらたなる変革への熱量でもある。

わたしたちは、得るものがあるかどうかで人を判断しがちであるが、正しくは自分の好きな人と付き合っているということだ。

人間は限りなく自分に甘いから、決して不快を感じる環境や、不愉快から決して抜け出せずに、喪失感や、自尊心を傷つけられるような、それが妄想的なものをさほど含まないにせよ、そのような影響の元には一秒だってとどまりたくはないものだ。それをあえてするならば、より強力な理由が必要だ。たとえば、それが実験であり、お金がもらえるとか、それが潜入取材であって、後々ヒットするであろう著書のソースになるであろう、など、明確な理由が必要である。

すくなくとも、小銭を稼ぐというだけで、そんな忍耐ができるほどに人間は機械的には出来ていないし、それは人間ではない。

わたしは幻想を破壊する為にあえて不愉快な環境に身を置いたことがあるが、それが結果的に良かったのかどうかは、判断がつかない。だが、そういう風にわたしは感じてしまうのだ、ということは学んだわけだ。

しかしながら、人はかわる。

わたしもかわる。

あらゆることは変わってゆくが、その変化はあまりにも遅く頑固で、ときには変わったと思い込んでいただけで、実は何も変わっていなかったことに気づいて絶望するものだ。そして、人は変わらないという真理に気づくのだ。

しかしながら人はかわる。わたしもかわるのだ。それが真理であるが、変わらないという側面もあるまた真実である。

人は他人にはならないからだ。

あくまでワタシという存在記号として、環境の影響を受けながらゆるやかに、きわめて漸進的に変化を享受するということだ。それは、心理的なもの、身体的なもの、寛容さ、経験、人の傾向を知ること、人の能力の限界と、その正しい使い方を知ることなどである。

決して、ステレオタイプで人を規定することを信念にしてはいけないとおもう。こういうタイプの人は…と、わたしたちは思ってしまうし、それはたぶん正しい判断だ。

歩きタバコに、捨てタバコをみたときに、不愉快になり、時代錯誤で自己中でだらしなく、関わる価値のないゴミのような人間、と思ってしまうと同時に、そんなのは一面でしかなく、子煩悩のよい父親で、仕事はまあまあできて、なにをしてもそこそこにそつなくこなす能力をもっている、割と優秀な人間かもしれない、などとあらゆる可能性について思いを巡らせて自分を戒める。

人は多面的であって、ある行為や、ある考えがその多面の中の一面に過ぎないことは誰でも知っているが、しかしながらわたしたちは"そのような行為"で結局のところ、その人々との接点を避け、その人自体を拒絶しているのであり、受け入れようとする能動は、あくまで自己の中の狭量であったり、向上のためであったり、そなわっているバランス感覚であったり、もっと本能的な防衛のためである。

それらを相手のこととして判断しようとする傾向が強ければそれらは自己欺瞞に陥っているのであり、わたしのもっとも嫌悪するものだ。吐きそうになる。そして、そのようなシステムはわたしの中にも当然あって、時々発見しては自己嫌悪に陥る。そして、その自己嫌悪に対してより強い嫌悪を感じ、罰したくなり、人々を拒絶しようとする姿勢につながるのだ。

もっとも、このような防衛機制であったり、内省であったり、ひきこもりであったりするものはすべてハナクソのようなものである。

できてしまうが、不要なものだ。

人と人とに必要なものは、まずは第1として、話してみることだろう。その際、あえて墓穴をほってみたり、あえて自己を低くしてみたり、あえて道化を演じたり、あえて過去の自虐史を持ち出してみたり、あえてコンプレックスに触れてみたり、あえてクエスチョンを持ち出してみたらり、あえてテンションを高くしてみたり、あえて丁寧にしてみたり、あえて自然にしてみたりすることを選択することもない。

まず第1に必要なことは話をしてみることである。そして、第2に必要なことは話した人との距離を感じることである。

この距離というものが非常にシビアなバランス感覚を必要とするものだと知るべきだ。

距離は意思でもありうる。縮めようとする、離そうとする、距離を計り直そうとする、あらゆる双方向による意思そのものである。この距離感は、あくまで暗黙の了解に基づいており、それは話をすることやその内容とはあまり関係がない。そして、断ち切ることは容易である一方で、より深めることは難儀である場合が殆どである。星と星は引き寄せあって消失し、引き寄せあっては新しくなる。

人と人も引き寄せあってはすれ違い、はかいされ、稀に有意義な建設をする、くらいのものである。つまり、人の幻想という事柄は、きわめてユートピアの建設と似ている。ユビキタスと、ユートピアである。いわゆるコスモポリタンと、神の国である。

キリスト教でも共産主義でもいいし、チベット密教でもいいし真言密教でもいい。

それらの建設は確率論であり偶然であり、ときに必然のような感じを与えるあらゆる偶然と天体の法則である。

わたしにできることは、まず、出来ること、人と話すことをする、ということである。そして、出来るならば、話す時と相手を選ぶことである。あらゆることは計算の外にあって、いわゆる宿命の下に置かれているのだということを知らなければならない。

行動することも然りである。しないことも然りである。