うつなわたしのブログ

年々鬱々な日記帳

運命

私は自分の辿ってきた人生の中で、運命の力のようなものを感じることが幾らかあったと思う。運命論者程には物事というのは必然的だとは思ってはいませんが。

しかしもしそれらの出来事が運命の法則によるものだったとして、それが一体何なんなのだろうと思いますね。所詮はしにゆく定めを持ち合わせて生まれてきた人間であって、むしろその事柄がより運命的ではないですかね。

せいぜい数十年という、動物にすら負けるような短い人生と決まっているなかで、自分や社会のほんの一部を作り上げたからといって、死んだ後の自分に一体どんな関係があるというのか、まったく合理的ではない。

わたしが子供を残すとか、共同体感覚のようなものを理解するとか、そういう過程があればこのような疑問も解消されうるだろうか?

いや、どのみち残された事実としては人生に意味はないということでしかない。それが唯一、あらゆる人生観のただなかで放たれる決定的な明瞭さである。

世の中にはこうした運命の力、それもただ近視眼的に自己都合の心地よさを纏っているようなモノに対する盲目的な崇拝が横行しているのを感じる。これらはたしかにぬるま湯であって、心地よくつかっていられるだろうが、それは儚くも短い人生の中の、さらに短い一節に過ぎず、それらは結局のところ彼らの見たくないものから目を逸らさせてくれることにおいて特別有効だからである。ひとは、見たくないものを見ないで、見たいものを見る生き物であるからだ。現実逃避である。

見たくないものを見ずに、見たいものを見るからこそ、見たいものが=運命的なものとして解釈されてしまう。そして、見たいものが、見たくないものに変容してしまったとき、人々はそれらを邪険に扱うようになり、それらから受けていたものを当然とみなしていたからこそであるか、その反動においてあまりに残酷になれるものである。

こういった、人間の思考における弱さ、そして自己正当化、そして、無反省な態度というもの全てがわたしにとって嫌悪の対象になる。

救われるものは、救われないものである。世の中は、心地の良いベールを取り去れば単に地獄である。短い余命もいうものも含めて。

運命というものは私たちが生きている間の期間にのみ、なんらかの偶然や局地的必然性において生じる現象であるのならば、それらは意思の力、あるいはあらゆる選択の余地を選択することによって自己都合的に引き寄せることが可能になるかもしれない。彼ら自身が自分自身の特徴、個性、才能、できることとできないこと、やりたいことと、嫌いなことのさまざまをその選択に明確に活かせるのならば、運命の力はより強まり、虚無の海のただ中において、少しばかりの光と輪郭を与えはするだろう。

しかしながら、そういったものはちょっとやそっとの波のゆらぎ、時代のうねりの中で強制的に輪郭を変容させられ、光はもぎ取られるだろう。その揺らぎ、心の揺らぎのなかで人々は自己を見失い、そして自己を再発見するために、新しい自己を構成するための啓示を探し求めるのである。