うつなわたしのブログ

年々鬱々な日記帳

死の島

30を超えてからというもの、本当に何もする気力が無くなってしまった。あらゆることを楽しめず、また行ってもすぐ苦痛になる。昔はまた別の身体症状からくる苦痛であったが、今では単に苦痛がある。これさえなければ、みたいなものが結局のところは関係なくて、元々の性質に抗えないことが年々わかってくるのだ。もう今更、いまさら何を足掻くのかと。

感受性みたいなものも、よくわからなくなってきた。自分が何を好きで何が嫌いで、何を夢見てたのか。何も感じなくなってきてる。ただただすぐに虚しくなるだけで、ただそれだけだから、なにかに関わろうとか、やっていこうとか、少しだけ起こってもその気持ちを育てることができない、そんなことをしても意味がないと感じている。朝起きるたんびに気が滅入り、体を動かすのが苦痛で何度も何度も寝て、頭痛が始まる頃にようやくなんとか体を起こして、身支度をするが、それもしかし何のために。もうなにもしないのであれば目を開けたまま寝ていたらいいのではないのかと思う。もはや起きて活動したところでなにもないし、死人たちに蹴飛ばされるだけであるし、嫌な気持ちになるだけで、そう、不愉快になるだけじゃないか。それか、アホになるふりを頑張ってして、ワハハといくしかないではないか。何のためにそんなことを。もはやそうする意外には、脳がそうなってしまっているので、体さんにはもうどうすることもできないわけで。あらゆることが惨めにおもえるし、惨めなのはもう言うまでもなく明白であるのに、なぜいまさら惨めではない風なのか。どう考えても単に惨めであるだけの、どうしようもないクズなのに、なぜ、何かあるような気になってるのか。他者は関係ない、人なんていうものは存在すらしていない。欲しいものが見つからない、わからないと嘆いている。いつまでそういうことをするんだろう、まだ諦めがつかないのかな、まだ死人になれないのだろうか。なにをそんなに考えてるんだ、まだ挽回が効くなんて思ってるんだろうか。どうしたいのかもわからないのに?

なにかやろうと決めたこともできない、なにもかもしなければと考えているだけのうちに、あらゆることができないまま、単に終わりを迎えてしまう。終わる前になにかしたいと思うは思うけれども、なにもせずに終わりを迎えてしまう。みな、度胸と勇気、あるいは怖いもの無しの行動力で臨むことを成し遂げてから終わる。わたしは望むことを成し遂げられない。望むこともわこらないように思える、一体何なんだろうどうしてこうなってしまったのだろう。あらゆることの原因を振り返ると、問題はあったにせよツケもある。アドバンテージもあったが、それらを活用しなかった、他者に甘んじていた。偽りの安心感。偽りの信頼感。うその関係で気を紛らわせながら、なんとか生きている。そんなこと、なんにもなりゃしないのに、携帯もパソコンもどうせ使わないのだから誰かにあげて、捨てて、なんにもしなきゃいいんじゃあないだろうか。そんなものあったってなんにもなりゃしない、もちろんなかったら単に困ることが増えるだけだけれども、そもそも困っているわけでそんなものがあってもなんの助けにも救いにもならないわけで、いままでのすべての人間関係がそうだったみたいに、なんの意味もないまま自分がないままに単に周囲の影響だけに振り回されていきてきた、くだらない、つまらない、やる気がない、全部わたしのこと、周りの人たちのことなんて知らない、それらはそれらで生きているんであってそれはそれでいいんじゃないだろうか。いや、よくないのかもしれないけれども、結局みんな自分のツケと、自分が引き寄せたものの存在でしかないし、そうなることしかできない。人の都合にふりまわされるだけ、人の時間として動くだけ、対価なんてない、それは自分が望んだものを獲得したときに得られるもので、わたしはそんなものを手に入れたこともない。無欲なのではなく、本質的に無価値と考えおり、そのためにあらゆる労力、つまり金であったりツテであったり、そんなことに時間をかけるのは、いや、そんなことで努力している自分に対して自分が一番冷ややかにみており、当然そんな状態で、他者と真っ当に関われるべくもなし。宗教の方。情熱の方。信念の方。みなうざい、みな、うっとうしい。たしかにつよくあり、輝けるのは素晴らしいかもしれないが、狭い視野において、あわただしく、あくせくと。他人を不愉快にさせつつも、それで満足しきっているふうな鈍感さ。あらゆることにおいて吐き気を催すのだが、周りを見渡すとそんな輩しかいないじゃないか。もっもと、普通の市民はそんな輩をまともに相手にしていないわけで、もっと直接的な愛情、家族、単に利害、会社であるのがそれらのやり方であるから、まあちょっとした気晴らし、疲れ果てたときにコロリといってみるのもいいか、くらいのものであるから、いかんともしがたいのだ。人生の見方において、どれもその人となり、個性、経験からくる結果であるのだから、それをどうだああだというのも、仕方ないし、わたしがどうあるかで、その関わり方も変わってくるのであるから、そう、周りの人々は、そもそも生物というのはそういうもので、おのおのの自由と欲望をもってして、それを達成しようと励むもので、単に弱肉強食の論理がまかりとおるだけ。わたしのようなものは打ちのめされていなくなるのがまあ、普通の慣性であるわけだから、どうということもなく、そもそもこうすれば、ああすればというようなタチのものでもなく、そういうことが当てはまるにせよ、それもたまたまそうなったくらいのもので、なにか本質を揺り動かすような力、そういった法則があるわけでもない。あったとしても、わたしのこころにかなわない、そもそもどうだっていいのだから、何かが可能になったところで用いようがない。遊ぶことくらいならできる、遊ぶというのはそれ自体で完結しているのだから、できないことはないが、いや、突き詰めたら単にそれだけの話なのかもしれないが。