子供時代
なにに怯えていたのだろうか。
わたし自身についてならばその不自然さかもしれない。偏り。偏りゆえに、対人関係のバランスがとれず、噛み合わなくなる。
そもそも対人関係において、拗れた思考のパターンが醸成された原因は親にある。
親や親の考え方、環境、宗教。
自然な自己表現ができなかったことや、出来ないことを環境や外因(精神的障害も含む)のせいにし、その『せい』を背負い込んでくれる相手を求めていたのかもしれない。
そして、それは女性であるほうがよかったのかもしれない。
何かのせいにすることの無意味さと、誰かに理解してもらうことの幻想に気づかないふりをし続けてきた。
そうでもしなければ救われなかったのだ。
しかしいまや全てが暴かれている。何者のせいでもない。もはや苦しむ振りをする意義もない。
ただそれを実感できるほどに落ち着きを得られるまでに、わたしの場合は30年以上もかかったということだ。
であるから、ここからは完全に自由であると同時に誰のせいにも出来ない大人のフィールドがひらけている。
そのまえに立ちすくんでいるわたしがいる。