蘇る
むかしのいやぁ〜な記憶が蘇ってくる。
それはみんなに無視される独特のあれで、周りの空気が読めてないこと。それとグループのリーダー格に無視されるやつ。
そう思い込んでいるだけなのかもしれないけれども、この手合いは徹底てきに無神経である。それは話を聞いていればわかることで、無神経すぎることと、特定の人に対する好意の偏りが顕著なタイプである。
リーダーやホストを務める人間は、なるべくグループ内の人間たちに対しては公平を期するよに配慮すべきであるが、そういった配慮がないタイプで、かつ、そのような自分を理論てきに武装して守っているタイプのディスオーダーであれば、もう仕方がなく気持ちが悪い。
無自覚、無思慮ならば少しは可愛げがあるものだけども、徹底てきに自己愛を優先してきた人間の傲慢さというもの、これほど醜いものはなかなか見当たらない。加えて、そういった傲慢さ、自己愛にさほど注意を払わずに、それどころかそういった傲慢さに英雄てきなものを汲み取って好意てきに付き合う輩がおる。
これらが最も醜い。
こういった、配慮のできる神経をもった、あるいは想像力がある程度ある弱者を押しのけてまでグループのなかで活動し続けられる神経こそ、害悪の極みである。
そしてそういった輩であるのにも関わらず自分こそが弱者であるのだと主張するのであるから、全く手に負えないものだ。
うじ虫はどこにでもいて、ものを腐らせる。しかしそういう人々はただただ不愉快さを残していくだけで、なんら建設しない。まさに人間のクズである。
わたしはそういった人間のクズたちに興味を覚える。なぜ、わたしは彼らと感じ方がこうも違うのだろうか。いや、人々は普通はこうであるのではないだろうか、と考える。
メンタルがあるとかないとか、そんなことは人々を隔てる決定てきな条件なんかではない。決定てきなものは、より内省的(理性と自制)であるかと、より動物的であるか(本能と即反応)、他者に対する想像力が働くから働かないか。そいった事柄を深く思索におとしたことがあるかないか。
そういった軽薄さと、高尚さというものは、決定的にいつでも水と油である。
悩んでいるから高尚であるわけではない。傲慢だから軽薄であるとも限らない。
痛みを感じるかどうかである。そして、自己と他者と、その心に敏感であるかどうかである。
最も、生き残るものたちはそういった強力な無神経さを我が物側で使用する輩であろうが。