うつなわたしのブログ

年々鬱々な日記帳

ものかなしい

気持ちが沈み込み、ずんずんと内省を深掘りして行き、あらゆる物事に対するベールを剥がそうとする。すべてのことは灰色で意味がなく、みな魔法にかかった状態で、おのおのがただ欲望のままに、単に楽観的な視点でのみ、ものをみ、信じたいものを信じ、いいたいことを言い、勝手に疲れてやさぐれている。

なにが悲しいのかはよくわからない。何かが手に入らないから悲しいのか、手に入れたとしても実際のところなんの意味もないことに気づいてるから悲しいのか、いまだ未熟すぎる内面を見つめて悲しいのか。

人もモノも幻想を捉えている間が楽しくワクワクすること、つまり儚い幸福というものであり、現実というものは幻想を持てなくなるということを受け入れることであり、我々の考えや体そのものが変転してゆくことを緩やかに受け入れるということ。無情である。

ああわかった。つまりまたこれだ。エスパーのようなこれ。でも、これは過去の記憶に条件づけられているものだから気にしてはいけない。それにそれはどうにかしようとしてどうにかできるものじゃあない。しかし、人というものはどこまで、どのように誰と作り上げたとしても最後は一人、ときどき一人、そしてほんとうに一人である。それを受け入れることが出来ずに、子供に自分を放り投げる人もいる。

ひとは何かに縋り付かなければ、ベールの剥がれた無情では生きていく力を得ることが出来ない。みなぎるエネルギーを感じ、それに意味を与えなくてはなにもかもが無意味に感じられ過ぎ去った過去を振り返ることに老いを感じ、恐れおののくが、もはや前を見ることも振り返ることもできずに、ただあるという今を噛みしめるだけ。万策は尽きた。空は薄暗い、人類も黄昏ている。活き活きとするもの全ては幻想であって、そのものの没落を知る前に世界全てが消え去ってしまうのではないかと思う。わたし自身がそういった心境に陥る地点にいるだけなのかもしれないが、もはや何かを成すことに、誰かがそのエネルギーを発揮することにも、なんの興味も期待もできない。すべては無駄な努力である。徐々にそのエントロピーを増大させるしかないよう宿命づけられている世界に取り残されたかのようだ。あと何回、世界の歴史を目にすることができるのか、わからないが、決してそれほどには多くないだろう。人の一生のなんと短く儚いこと。言いたいことはそんなに多くはない。慎ましく生きることもなく、でっかく生きることもなく。