うつなわたしのブログ

年々鬱々な日記帳

やはり陰鬱

金を捨ててしまうことに快感を覚えることもある。刹那的な感覚である。衝動を行動化して、限られたお金と、限られた時間と場所の中でミッションを果たす感覚。素直な子供のようなものの見方をするように出来るだけ気を配って、余計な妄想意識が入り込まないよう極力フラットに勤める。それは、店選びもそうだし、初めての人と話すときもそうだけれども根本に居座っている回避衝動との戦いでもある。好奇心と興味本位のわたしを全開放させてやる。全開放することでエクスタシーを味わいたい。だから金額にも限度を設けるのだ。その中から時間を見積もりしつつあらゆる自由を自分に許すが、陥りがちな『しなければならない』思考をうまく排除することが大事だ。お前はあらゆることから自由で、その場その場で何の見返りも期待もなく、感じたままに行動し、発言し、目を輝かせたり、意気消沈したり退屈したりしていいし、飽きたらその夢幻を終わりにしてまた自分の時間の中に帰っていけばいい。

このゲーム全体のなかで最も得られる大事なものは人を見ることができるという点に尽きる。そして、人との交流、短い交流であればすれ違いざまのアイコンタクト、コンビニ会計から長いものは食事しながらの雑談まであらゆるシチュエーションで、無限の選択肢が与えられており、その時々のわたしのもっとも純粋な感情を発露させうる自由に心が躍る。条件があって、理由があればより自由になれる。なにも必然性がない場合は交流相手に余計な警戒感を与えることに繋がるので結果的にスムーズな交流に結びつかない。この感覚をもっともっと多くの人との交流のなかからパターン化して昇華できればより明らかな『わたし』がつかめるに違いないと思っている。今年もまだたくさんの日にちが残っている。まだ多くの人々との交流が可能であるし、もっとテーマや人種を絞っていくこともできる。もっとも多くの成人たちはそのようにして人生の残り時間を、自分優位に有意義に過ごしたいと願っているに違いない。

わたしは社会構造というものが、つまりお金を相手に使わせること、自分の利益のために相手に時間を使わせることなども含めて、本当に純粋な人と人との付き合いというものが実社会の中にはほとんどないということをはっきり知るようになってきた。みんなそれを肌で感じいるのでそれぞれの空想に逃避している。哀れな人々は本当に心地の良い状態の自分が分からなくなっているし、人に対しても過度に疑心暗鬼になっていて、ほんの些細な交流すらもその心のせいで阻害され、悪循環の結果として自己愛にこもることこそ最も効率的に生きることだと理解するようになっている。地域柄もあるかもしれないが、結局のところ、人々は日々の生活と家族の問題、国の問題、身体の問題、あらゆることに怯えて不安になり、あらゆる事柄に対しての澄んだものの見方というものを忘れ去ったようである。しかしそれも仕方のないことで、現代では人のことよりも、人が人から搾取する為に編み出されたありとあらゆるマーケットにあらゆる感覚器官が刺激され、そこから逃れられない環境に置かれているし、どんどんそう行った風潮は強まっていくに違いない。そんなサイバーの中で自己を見失わずにひらけた態度でどのような相手に対しても素直な自己開示をしていくことこそ、これから最も難しくかつ重要なことになってくるだろう。

しかし、そんなサイバーな、ごてごてな、そして資本と哲学、あらゆる救いがうねりのように混沌と交差する現代こそ、人間としての真価がもっとも発揮される時代であり、あらゆる救いを標榜する人々がそれらのことを実感し実践して、実際にその技術において大きな成功を収めている。かれらは人間の真価の可能性をある意味封じ込めている。あれそれをすることが人間の心理だと誤解しているのだ。人間の心理は常に自己に、他者に、世界から欺かれており、それらのことを承知した上で辛く、苦しく、呻きながら這うようにして、光の方へ進んでいかねばならない。そのことを無視して都合よくでっち上げられ、それぞれの形に合うようにこねくり回されたまやかしの真実、まやかしの自己をあてはめさせられ、それが本当の自分なのだと錯覚し、ヘタを打てば死ぬまでそのことに気づかず、家族も、親友たちも、そして世界中のあらゆる人たちもそのことに気づかないまま、人類は自己を欺き尽くすなかで破滅へ向かうに違いない。知性は徹底的に欺瞞を禁じ、あらゆる叡智を人間たちの最大の幸福のため、それは夢を信じられる世界の創造のためのものであり、それらに力を尽くすことこそ使命であり偉大であり、人間であることだということを、おそらく知るものはほんの一握りであり、そういった点においては誰もが自分たちの存在を究極的に裏切っている。こういったながれは、おそらくわたしが生きている間にはかわることもないし、延々と続くカオスの中に飲み込まれていくだけなのかもしれないが、そういった真実性の声と明朗なイメージを求めて、あらゆるビジョンや啓示、幸福感や安らぎ、心からの安寧の瞬間をもとめて、わたしら足掻き続けなければならないが、それは苦痛というわけでもないし、やはりそれらも人間存在に規定されていてこそである。どんな動物との間において素敵なイマジネーションを構築できたとしても、やはりその媒介に人間的なコミュニケーション、イメージが必要である。

誰も何も知らないのであるし、みなが自己を演じて生きなければならないのだ。さて、わたしの利益とはなんだろうか。そのことについて真剣に思考するためには、まずはわたしの心からの渇望の声にしっかりと耳を傾け続ける自己への忍耐が必要であろうとおもう。