うつなわたしのブログ

年々鬱々な日記帳

スイセンが咲くまで

度々わたしの肩にのしかかってきた自己愛というものは、本当に重篤さを備えていて、色んな心の問題を引き起こしては、その真髄を悟らせずに巧妙に姿を隠してはある種のあきらめと共にいまでもわたしの中にさまざまな形で渦巻いている。そして、新しいカタチでふいに姿を出してはわたしを幾度も落とし込ませようと淡々と機会をうかがっているものだ。

これは病理だ!

それも相当に治療の困難な病理!

ナルシシズムというとのは、優越感にせよ無力感にせよ、常に自己の内的世界に視点を向けさせようとする力、コンパスの盤面が常に決まった方向に向かおうとする磁力のように、思考そのものを内側へと掘り下げようとする機構のことである。

幼少期の環境、特に親と子の関係性や、社会的な影響に歪みがあると、精神的な成長過程における内的な欠損を被る。

それらを補って自己を維持するために、わたしは涙ぐましい努力(逃避)を繰り返して、理想的な世界と、その中では不完全にも揺れ動く自己と知りながらも丹念に調整を重ねて、生きながらえてきたわけだ。

躁と鬱の間で常に揺れ動くのは、わたしという実存が無意識化のわたしによって本質的に定義されていないままだからである。

下世話な表現を使うならば理想と現実の境目がわからないのだ。現実というより、現実(客観)以下の自己像であろう。

若い時分に内在されている心的エネルギーのようなものが、それらの誇大的な自己であったり、底抜けに深い自尊心の欠如であったりする現実をいいように弄ぶのだろう。

年を経るごとに寛解に向かう理屈とは、それらのエネルギーが自然と衰えてゆく中で、現実の人々と相克し、喘ぎながらもわたしの立ち位置と病理とそのどうしようもない過去(の現実)とを、諦観を持ってして体で納得せざるを得ない、一つの過程であるからだと思う。

人は過去に戻ることはできない。

前世療法のような眉唾を心底に信じられるだけの知性の欠損も同時に持って生まれてさえいたら、それは一つの治療、一つの人生を取り戻すための一つの道であったのかもしれないが…。

分裂した自己を取り戻す旅に終わりはなさそうである。

同時に強迫神経症が呈する観念的で時に行為的である防衛というものは、完全を求める衝動であり、それは反対心理として自己の不全感に対する防衛でもある。

あらゆる強迫的な行為というものは、リアリティーを半ば意図的に無視しており、当人にもその自覚があったとしても、ある特定の恒常的で安心出来る環境でパブロフの犬がよだれをたらすことのように、 不気味に繰り返されることである。

その強迫的な行為により、無価値な実存であるわたしから遠ざかることであるが、その強迫的衝動が薄れることによって、大きな抑うつの波が慢性的な不全感として体を覆いこんでくるのである。これらは自己が不安定な中においてもアイデンティティの同期を計ろうとする精神の作用である。

これらは、おそろしい一種のホラーであると思う。神話において結局ナルシスは、鏡面のワタシを見続けなければならない罰を受けたのであり、その効力と宿命により、徐々に衰弱死してしまうのだから。