うつなわたしのブログ

年々鬱々な日記帳

複雑すぎるリモコン

半狂乱になる。

怒り狂う。

わたしの努力が無駄になったことと、努力を省みるべき人間がわたしを無自覚に裏切るということに耐えられなくなる。そして、その人間はわたしでもあるから、まさに半狂乱になる原因はわたしである。まったくの他者はわたしに対してなんの現実味ももたない。わたしは、他者に心地の良い環境を提供したいと思って必死に複雑なリモコンを操作する。彼ら、彼女らを喜ばせようとして、わたしは頑張る。少なくとも、そういう気持ちを持っていた。だから、その少ない時間、彼らはトイレにでもいっていて、戻ってくるまでの間に、肌寒いから空調の温度を上げ、風量の調整をして、風向きをかえるために必死に操作する。あれや、これやと電子図面のようなボタンの群れ、変わった形のスイッチなどをいろいろ試してみる。なんとか理想通りの形に落ち着けたものの、みんなが戻ってこない。かすかに聞こえていたざわめきもなくなっている。不安を感じて確認しにいくと、危惧した通り、案の定モンスターが彼らを追い出してしまっていた。なぜ、誰もわたしに声をかけに来てくれなかったのか、いわれるがままに?理性をなくして暴れるが、モンスターは人形のようにソファーにもたれかかり、無表情である。ただ一方的に消耗してゆくわたし。涙が止まらなく視界が霞む。誰もいないはずの部屋に戻ると人がいるが、それの顔を見てはいけないと感じる。それは、ドッペルゲンガーのようである。夢に出てくるもう一人のわたしであり、その姿を見ることはできないのだ。脳が痺れ、視界が歪む、涙のせいかもしれないが、その姿を見ることはできないのだ。それは悪魔かもしれないし、わたしの魂を揺るがすものなのだと直感的に感じ取る。わたしは、その姿を見ることができない。それは、とっさに姿を変える。人の姿ではなくなり、エイリアンのような姿に形を変えて、徐々に泡のようになり、蒸発してしまうのだ。別の部屋にも人がいて、懐かしいソファーに座っている。それも、姿を直視しようとすると姿をエイリアンのように変えて消えてしまった。人形のようになり、カーテンに揺られながら仰け反るそれに向かい合いながら、わたしは、それらが幻視であったことを悟る。そして、目の前のモンスターが過去にそうだったように、わたしの中にもそのような幻視をもたらす因子があり、似たような存在であることに気づき吐き気を催し、全身から力が抜け、絶望に覆われていくように感じ、あらゆることが単なる空虚であると悟る。

ワクワクした気持ち、まつあいだの情熱、不安、激昂、悲しみ、恐れ、あらゆる感情がわたしのなかで流れきってしまったように感じ、後に残されたものが、欠陥であること、欠陥を抱えながら絶望の中を孤独に行かねばならないことを想い、やりきれなく項垂れ、目の前が真っ暗になった。

ポイントはなんだろう。重要なワードはなんだったのだろう。無意識がわたしに教えてくれることはなんだろう。罪悪感はあっただろうか。単に無力感と、孤独感があっただけだろうか。

とにかく、大勢が離れていく、それがどんな原因によるものかはさておき、結果として孤独になるという点は象徴的である。わたしが人とのつながりを求める時に、モノを複雑に操作するという点にも象徴性が宿っているように思える。わたし自身の身体を、全身全霊をかけて人と関わろうとは決してしない。妨害のせいだろうか。かつてはそうであったかもしれないし、それは憐れまれるべきことであったと思うが、それをもはや口実にすることはできない。過去はもうないのだから、過去にこだわって見たところでどうすることもできないのだから、これから私が出来ることに焦点を当てなければならない。それは、過去から学ぶということだ。私は環境を乗り越えて行かなければならない。乗り越えることができたと感じても、度々過去に引き戻されることはあるかもしれない。それも私の中に眠っている真面目な私である。それを消すことはできない。そのチップは一生埋め込まれたままで、時折悪さをすることがあるが、決して本質ではない。それは、環境因子が年月をかけて作り出したもの、わたしの血肉で養われたもの。切り離せないもの。消し去ることはできないもの。思い知らされる。どうすればいいのかな。

でも、これを一区切りにしたい。

無意識の海がすくい上げてきたこの明確なイメージに、答えを与えてやることが意識の役割である。こんなものはまやかしだと突き放して忘れたふりをするのは自分の今後のためにはならない。このイメージを受け止めてあげることがとても大事であると思う。そして、出来るだけ解釈してやるべきだ。リモコンを操作することに意味がなかったわけじゃあないし、現に"大勢の友達や知人"のような人々が、同じ空間にいたということがポイントだ。そのときわたしは何をしていたのか。部屋の端っこで何か一人でしていたのではないのかな。それがわたしなんだと思う。運命が、環境がわたしを孤独に追いやった面もあるが、それだけではない。わたしから孤独を選んできた面もあるということだ。そして、自立をする苦労を取らずにきたのもわたしの選択である。わたしは、時間を味方につけて、あらゆる悪、サビが消えていくまで耐えようとした。それが達成されたら本当の自由、本当の孤独、良い意味での孤独になれて、そこから人生が再開するのだと思っていた。それを感じてみたいとおもっている。それは、そのうち達成されるだろうが、達成された後もわたし自身の中に流れる病質的な遺伝子が消えて無くなるわけではない。それは、わたしが生存し続ける限り、わたしの意思とは無関係に私の中で様々に形を変えながらも生き続けるであろう。わたしの意識が、どこまで本質を変容させられるのかはわからない。それでも、敵を知り、戦いを挑んでいかなければ達成の喜びを味わうこともなく、なにもなく終わってしまう。それは、やはり悲しいことだと思う。

複雑すぎるリモコンをオタクのように弄り回して、完璧に操作できるようになる頃には、その満足だけが残り、人との交流は、完全に失われてしまう。そんなクソみたいなリモコンを操作することをわたしはさほど望んではいなかった。それは、みんなのためであったのだから、みんなの存在の方がわたしに必要なのである。あるいはみんなの中の誰かが必要であったのだ。それに注意を向けずに、複雑なリモコンに注意を向け用としたのは欺瞞である。自分に対する欺瞞である。その欺瞞は、肉親に対する憎悪に変換されていく。もちろんストレッサーではあったが、あらゆることは自分の本当の欲求を自ら抑圧することに起因する。なぜ自ら抑圧するのか。抑圧する癖がついたのは、間違いなく環境の因子が影響している。その環境を作り出したのはわたしではないが、環境の影響による弊害である、というところまで理解できている以上は、この欺瞞を続けることにのし掛かる自己の責任を避け続けることはできない。もっとも、日本人のわたしにとってシビアなコントロール、それも命に関係する、人間の最も根源的な部分に対する歪んだコントロールを受けたことへの影響力を、だれもが過小評価することは許せることではないが、それを言っても始まらないし、だれもかれもが、当事者までもがそのことに対して関心がなく、いや、むしろ関心を放棄しているという事実をわたしは知っているので、口をつぐむしかないのである。なぜなら、そのことに関するわたしの真の望みを与えるだけの叡智は、人間には与えられておらず、せいぜいまとはずれか、斜め上からの同情をもらって、その見当違いさに悶々としながらも、感謝してわたしは恵まれていると、自己に言い聞かせながら生活する、それなりの欺瞞がせいぜいといったところであろう。

わたしはリモコンをみることで目をそらすことができた。そして、操作し、状態を整えることに成功するが、そこにおかれるはずの人々はいなくなってしまうのだ。では、リモコンを必死に操作したわたしに意味はあったのだろうか?リモコンを操作することをわたし以外の誰かかわはっきりと望んだだろうか?いや、だれもそれを口にはしていない。わたしがそう意気込んでやったことなのだ。つまり、コミュニケーションがない状態からわたしがより親しくなるためのコミュニケーションのための土壌づくりをはじめたというわけだ。ポイントは、まずはじめにコミュニケーションがなかったという点がである。わたしの行動は、近視眼的で飛躍している。そして、アスペルガー的要素を内包している。そして、自己憐憫がある。わたしは、あらゆる手段を用いてこの自己憐憫という感情から抜け出そうとしてきた。しかし、原理的に、その本質は他者からえられる愛情では賄えないものかもしれない。その目的が非常に幼児的であるから、退行の兆しをみてとれるかもしれない。もっとも、立派な大人というものは像、またはイメージであって、どんな人にも幼児性があり、ある場面においてそれが顕著になることは不思議なことではない。大人というのは幻想であって、言い換えれば大人のふりをするのが上手な存在と言えると思う。とはいえ、退行を示す感情に囚われたイメージ(夢)は、わたしの深層心理から湧き出てきたものであるので、全くわたしの問題であるから、その前後関係における文脈を慎重に解釈する過程が、理解形成において非常に重要な意味をもつはずである。

わたしにとっては、理解されないこと、無神経に無理解なことをし、反省の気持ちを持たない感覚に対して、などである。リモコンを弄るのは、自己満足という見方も出来るが、それは他者に対する優しさでもある。もっと体当たり的なコミュニケーションが必要なのかもしれない、なぜなら、その方が世間的には良い特質とされる優しさを、より実利的に他者は提供することができるからである。つまり、リモコンを操作することが、仕事からであれば、その報酬を貰えるし、それがはっきりとお願いされたものであれば、相手から感謝をもらえるボランティアになる。わたしから遠いものが実利の考え方であり、そのためには、まず現実的ではっきりとした二者間のコミュニケーションというものが必要である。わたしは、どれだけ親しい間柄の友達に対しても、このコミュニケーションというものを取ってきたことがなかったから、このように、リモコン操作に熱中するあまり機を逃し、自己憐憫に陥るといったパターンが生じてくるのは無理からぬことである。それは、まさにわたしの生きてきた形そのものである。それを、象徴的に、かつ実際にあった事柄をコラージュ作品のように纏め上げて、一つのイメージとしてわたしにみせたということだ。どの部分も、断片的に精査すると、自分の事柄であることがわかってくる。