うつなわたしのブログ

年々鬱々な日記帳

記憶

逸脱行為は当時からあったなあ。

なんでだろう。

みんなにみせてやりたかったのかもしれない。

誇示しようとしていたんだとおもう。常にそれを誇示するチャンスをうかがっていたのだとおもう。もちろん突発的ではあったし、突発的な瞬間の記憶しか定かではないのだけれども、素養なしにことがいきなり起こるものでもない。わたしのなかにそのような異常性を誇示しようとする傾向があって、そのタイミングにそれをしたということだろう。目撃者もいて、その第三者の表情が忘れられないし、その表情をみるためにそれをしたといってもいいかもしれない。見せつけるということが重要だった。同情を買おうとする一つの戦略で、この場合は『孤立』のための戦略になっていて、心の底から望むものとは相反しているわけなのだが、それを言葉によって他者と共有する術や、そういった有用性というものに気づけていなかったのだろう。誇示の裏には、私的なヘルプメッセージを込めていたつもりだったのだろうけれども、他者の中に自分の解釈を投影していたわたしにとっては、今思えば望むことができないことをして、あえて自らストイックな苦境に落とし込もうとしていたように思える。いや、それでもよかったのかもしれない。その行為をすることによって、わたしの中の抑圧されたわたしがある種の解放の喜びの状態に浸ることができたのだから。それは、その後、わたしの後悔、わたしの黒歴史みたいなものになって、わたしのなかで消化されてさほど意味のない過去の記号のひとつとされていくのだけれども、そのことをいまになって思い出すにつれ、その行為の持つ意味、だれの中にもあるかもしれないある衝動を、ある意味正確なタイミングで演じようとする度胸というべきか。そのような大胆さと、強いSOSをはっするエネルギーがあったことに驚いてしまう。同時に、そのような状態をわたしに許してしまった環境にも憎悪を感じる。