うつなわたしのブログ

年々鬱々な日記帳

stressor

いまいちだな。ちぐはぐな付き合い方ばかりをしてきたせいで、まったく自分のあり方を見失ってしまっている。

ちぐはぐさは元からか。

熱しやすく冷めやすい性格ということを掘り下げたことはあまり無かったと思う。

でも大抵のことは掘り下げると幼少期のトラウマ体験に行き着くことが多いし、そこに着地させることが楽である。

物事にしても、対人関係にしても、もっぱら動機付けは似ている。人の関心を引くということが大きな動機付けになっているということ。それは、親しい人かもしれないし、血の繋がりがある人であったりもする。私は、両親から関心を示されることがあまりなかった。

関心を示されることといえば『したいこと』をしようとしたときに感情的な否定を全身に浴びせられるということであったが、それは私に対する関心ではなく、両親にとっての関心ごとであった。

したいことをしようとする私に対して素直な関心を持ってくれる人物をわたしのなかに作り出すことが、防衛であったので、わたしはわたしのなかに心地の良い世界を作り出して、そこに自分を置くことで精神の安定を手に入れようとしたのだと思う。それは普通のことだとおもうけれども、普通の家庭からしてみれば悲しいことである。

根本のところには、わたしのすることに否定的態度を取る親というパターン反応が植え付けられてしまったので、人に対しても、自分に対しても素直な気持ちを出すことをしない方がベターだということになった。

しかしながら、素直な気持ちではなくても人から認められたいといった承認欲求は普通にあったので、それが結果的に様々な無駄、無駄な時間を費やす結果に。

全ての原因は、家庭と親にある。精神的に未熟である。それは、知能が人より足りていないのではなく、情操という人間に極めて重要な感情を育てることができなかった事による。

この情操を甘くみている親は多い。それは生まれつきの疾患ではなく、育つ過程における親から子に与えられるべき栄養のようなものである。これを与えられないままに育ってしまうと、社会的な困難を感じ続けるような人間が出来上がる。外交的で、この情操や情緒を他者から積極的に獲得する能力に長けた人間であれば『おやが悪い』とは考えにくいだろうし、社会的な場で、そのようなことを言うことにはデメリットしかないことをよく知っている。いい歳をして親のせいばかりにする精神的に未熟な人間だと考えられてしまうのがオチであるし、誰だって込み入った個々の事情などに興味はないからだ。

問題は、問題を言語化できず、他者との関わりを望んでいるのにもかかわらずそれが苦痛で行動に至らない、内向的な人である。

手っ取り早いのは、精神科で診断を取り、甘えではなく病気であるというステイタスを自分のものにすることだ。しかし、これではことの、根本の問題解決にた当然、いたらない。別にいたらなくてもいいと思うけれども、それが問題であるということに気づける知能があると、葛藤を抱えながら生きていくはめになる。

熱しやすく冷めやすいというパターン反応は、わたしにとっては、一つの問題の行動化であった。熱しやすく冷めやすいという一般的なカテゴリーに収めることができるので、普通人との共通認識を持てるとして安心することができる。それに、まったく何事にも着手しない、できないというほどの深刻な病態ではないというアピールでもある。

誰かに認められたいから?期待以上の結果を残して、誰かに驚かれる経験が欲しい?いい加減なやつで飽きっぽい無精ものというイメージを返上したい?モチベーションを誰かに与えることは、人の喜びである。インスピレーションを誰かにあたえる能力は愛情であるかもしれない。わたしは、これらの期待を一方的に裏切るのが大好きだ。承認欲求は、わたしにとってはある程度のところで満足してしまえるものであり、それ以上のもの、相手の期待という段になるにつれシラケになってしまう。理解できるだろうか。ようするに、もともと何かに熱しているときのわたしの姿はうそなのである。本質的にうそなのである。表面的には、わたし自身が趣味を持ち満足しており、まわりも応援してくれる気持ちの良い絵面であるかもしれないが、そもそもすべてが滑稽である。ある程度の承認を得られたと感じたら、全てをぶち壊すというのはわたしの脚本である。

この脚本を書いたのはいつかは定かではない。

恐らくは幼少期なのかもしれないが、過去の記憶はあまりない。遡るほどに。

つい数年前のことですらも、夢のことのようだ。

端的にいえば復讐である。

狭い世界。

しかし、たしかにこの狭い世界の中で生きながら虎視眈々と復讐の機会を狙っている人間は存在している。

世間を騒がせるような犯罪を犯してしまった人たちのニュースを目にすると、またわたしが捕まったと感じる。わたしにとっては人ごとのようなものではないからだ。世間は飯の種のために好きなようにストーリーを作り読者や視聴者を飽きさせない。しかし、その心理の深みにまでは決して踏み込もうとしない。同情は不要である、というのも一つであるが、彼らの心理を察するだけの感覚を備える人間はごく少数であるからだと思う。ニッチな分野に対してセールスをする人間もまた少数である。

わたしは若いうちに全てを失うような大々的なことをしでかしたりはしなかったが、その萌芽はいつもとなりにあった。

そうならなかったのはたまたまだ。あるいは、熱しやすく冷めやすいという一つのパターンを利用しながら、犯罪性のない復讐を繰り返していくことができたからかもしれない。

そして、情操ではないかもしれないが、一つの落ち着きを手に入れることができた。それは諦め、老い、寛容かもしれない。

人が犯す異様なことがらも決して理解ができないことではない。脳の器質的問題がある人は抜きにしても、そのような情操を与えられなかった人間が、そういった惨めな気持ちに沈めるだけの感情を持てる人間が、人との信頼関係や愛情を理解するための柱であるはずの親を頼れないと悟ったとき、その内向性から他者との関係性を築けずに、だれにも理解されない、理解しあえない、そもそも理解をするということが、本質的に不能であると理解したときに、全身全霊をかけて自他の破壊にエネルギーを用いるのはそこまでおかしな話ではない。