うつなわたしのブログ

年々鬱々な日記帳

トワイス

経験の少ないものは、若いうちはいいが、壮年になる前に決着がついてしまう。壮年になってからも結果を出していけるものは経験のあるものである。経験のあるものは、人を喜ばせることが自然に出来る。言葉の持つ響きや、その使い方においても、磨かれた技を感じられる。

一方で、経験の少ないものは口先や言葉だけが先走る。良いものを詰め込みすぎたあたまは、そのことだけを伝えれば伝わると考えるが、それは逆効果である。もっとも、同じレベルの相手には伝わるのかもしれない。でも、そんなに遠くないうちに化けの皮が剥がれる。たぶん、本人も気づいていないだろうから、それは苦労して苦しむことになるかもしれない。みている幻想が輝いているだけに。

初回はわたしの勘違いだったのかもしれない。鋭さは、言葉自体の持つ鋭さであったのだ。ある意味、わたし自身の言葉に対するセンサーがしっかりと働いていたということであると言える。使い手の底が知れてしまえば、その言葉がいかに鋭い力を持っていようとも、まったく効果はない。むしろ、程度の全容がわかってしまった後にはどんな調子の良い言葉も退屈でしかない。輝かしい言葉なんかよりも、泥臭いもっと生の言葉が聞きたいのだろう。理想や将来に起こることを述べるなではなく、いまなにに悩んでいるのか、自分に足りないどんなことがらに苦しめられているのか。かっこうをつけることが、それに見合うだけのものが伴っていなければ滑稽にすら感じられる。

感性や波長の合う合わないもある。そんななかで直感による選抜、みる目を養う力と、まめに連絡を取り合うことを大事にしたい。しかしなによりも厳しいことは飛び込むことだ。

あくまで対岸の火事という態度では、それは誰もが関心を持たないのも当然だ。まだまだ共同体やコミュニティはある。いや無限にある。探していかなければ。