うつなわたしのブログ

年々鬱々な日記帳

なんのために

いきていくのか。

なにをしなかったら後悔するのか。

人間にはどういきたらよいか、という答えが与えられていないが、どのようにいきていくかをある程度までは選択することができる。 

どう、のまえに、なんのためにを問わなければ、みずからにも、誰かにも、存在を示すことができなくて、存在自体に意味がなくなってしまう、軽くなって、空気のようになってしまう。ただ存在するだけ。それでもいいのかもしれないが、うちなる自己がそれを容認しない。

もっともっとシンプルにしたいのはなぜか、その逆にもっもっと複雑にしたがるわたしもいて、気分によってふらふらとして、定まらない。どちらにもメリットがあるんだけれども、なにせ多くを望んでしまうのがよくないのかもしれない。

どうしていこう。なんのためにどうすればいいのだろう。なんのためにどうするかがわかったら、そんなに安心することはないかもしれない。ただ漠然と時間が身に染み込んでいくのをゆるしていられるような状態ではいまはなくなってしまったようで、あれやこれやと居心地の良さのなかに没入したがるのだけれども、まえほどにはわたしにとって融和的ではないのはなぜだろう。なぜだろう。なぜ?

そもそも、融和的だったのだろうか。

いぜんのわたしがどんな風だったのかも、よくわからない。結構違った風だったのかもしれない。もちろん、まえからもやもやしたものは抱え込んでいたから、そのもやもやがいよいよ鮮明化されてきたということなのかもしれない。そのもやもやはなんだろう。単なる劣等感コンプレックスだろうか。それとも、べつのなにかなのかなあ。それはお金で解決できることなのだろうか。やりがいとか、そういうことなのだろうか。からだのもやもやが鮮明化されてきたことは、現実の世界に触れることが増えたからだとおもう。その中でこのからだと意識が引き延ばされたり萎縮したりしながら新たにまとまってきた。それは、なんなのか。だからなんなのか。人と知り合うことがなんなのか。なにをしたら満足なのか。人とどうしたいのか。なにもわからないまま、時間だけがゆったりと確実に前進し続ける。時間は素晴らしい。これほどまでに確たるものはないし、わたしが年を重ねていき、さまざまな可能性から引き離されて行っていることもまあ時間通りに確実で、それにあらがうことが、それなのだろうか。じかんに抗わずに、ではどうすれば。それは、あたえられている時間の中において、みつけること。どうして、なんのために。そのためには、どうしたらいいのか、なんのために…?