うつなわたしのブログ

年々鬱々な日記帳

生きてる意味

ある人達と話すとダメかもしれない。ならば、もっともっと心に深く差し込まれているものはどうだろうか。わたしはそのものをもっている。それがわたしを腐らせる。わたしがわたしである限り、それらに振り回されて、なにも楽しむこともなく、誰に見られることもなく、ただあることを受け入れ続けなければならないのか。わたしは考える、人を探し続けて、わたしのもつなにかを引き受けて欲しいと願う。旅することに疲れ果ててしまいそうだ。こころのかわいたものを、こころのみだれたものを、こころのしぼんだ形を、だれかにひきうけてほしい。誰かに何かをみてほしいとはおもわない。だれかの役に立ちたいとは思わない。自分のために生きようともおもえない。あらゆる世の中のことがらを感じていくことがわたしには辛すぎて、それらが無であるということを受け入れることができない。わたしが無であるということを受け入れることができない。わたしはこの世になぜ存在しているのかがわからない。このようにわからないことを考えることが宿命づけられていたのではないかとすらおもえる。人はなにもわからない、わかろうとして前に進みわからないまま、満たされないまま、願いを残して消えていくのだ。ねえ、あれはどうなったの、ねえ、あれはなんでしなかったの、ねえ、あのひととはなぜ関わっているの。後に残されたことはわたしの影響の後始末だけ。することはわたしのしたいことではなく、だれかの影を自分ごとなのだと思い違いしているだけであって、究極的にわたしはわたしにはなれないし、究極的にだれかのわたしであるわけでもなく、ただそのかたちを止めることに精一杯な弱く儚いゆめであった。