うつなわたしのブログ

年々鬱々な日記帳

食べ、眠る。また食べ、眠る。

朝から街中に出て、一人ランチをしたはいいけれどもそこからなにもすることがなく、なにもすることがないと本屋や電気屋、ゲームセンターなどに向かうのだが、だから何かあるというわけでもなく。

ただひたすらに目的を考えながら歩き、食べ、歩いた。街中には人がたくさんいるけれども、誰もがわたしに関係がない。関係があったらあったで鬱陶しいと思うかもしれない。

知人のビルに立ち寄って珈琲を飲んだりもしたけれども、やはり特になにもなく、退屈し、思ったよりも早くに立ち去りたくなってしまった。

自律神経のためと言い聞かせて入った茶店日本茶を飲んだ時は、左右のテーブルに座った人たちが少し面白い会話をしていたので、少し気晴らしになった。わたしも興味があるところだけ会話に入れそうな優しい雰囲気だったからだ。無理に会話せずともお茶を飲む間は自分のペースでいいのだ。こういう空間はいいなと思った。見ず知らずの人の話に聞き耳をたてるというのは割と面白い。

常連さんが来てお茶も無くなったので立ち去る。お腹が空くまでの間が大変だ。飯屋に向かうでもなければなにもすることがない。ただ散歩しててもいいけれども気分はあまり優れない。退屈で憂鬱なのだ。刺激と目的意識が欲しい。なんでもいい。その場限りのものでもいいのだ。

本屋に行ってももはやどの本も読むに値しないのがわかる。すべてはビジネスのために量産され、人目をひく広告とキャッチコピー、写真や装丁を凝らしている。興味がある本も、中身はすでにかたりつくさている一般論、普遍的事実、ある哲学、はやりの解釈がすこし真新しく書かれているだけ、小腹が空いた時にチョコバーを食べてるようなものだ。

なにもない。生気のない人々、青春しているカップル、みるからにオタクな人、サラリーマン、家族。あるいはこの場に、街中にいない膨大な数の人々をおもう。なにもない。

家電製品をみてまわる。高価な品々、応対する販売員。談笑する販売員。いつかみたことのある販売員。マッサージチェアを利用した。欲しいと思ったけれども、1ヶ月もしないうちにただのソファーになるだろうなと思った。

かっこいい時計、イヤホン、ハイレゾ、シアタールーム、ピュアオーディオ有機ELのテレビ。あらゆる贅沢品。あらゆるもの。

なにをみてもワクワクしない。それらの本質がわかってしまっているから、それらにわたしを幸せにする魔法がないことをわかってしまっているから。

駅の改札口でベンチに座る。どこへいくわけでもなく、誰を待つわけでもなく。どこかへ行こうと思えばどこにでもいける。でもどこにも行こうと思わない。

腹が減って来たので、ようやく行き先を見つけ出し、目的の前で食べ、家まで歩いて帰ることにした。