うつなわたしのブログ

年々鬱々な日記帳

弱点

本当に私は弱い。骨の髄まで弱い。簡単にその時の気分で決定を変えられるのも、自分に弱い、負けまくってる証拠。思った通りにして気持ちよくいき続けることがなぜこんなにも難しいのかわからない。もっとも今まで、いつからかはもう定かではないが、自分を裏切って生きてきたことで本当の自分の声がまったく聞くことができなくなってるようだ。たぶん、小さな頃からそうなっている。人と変に関わるとロクなことがないのはわかってるのにもかかわらずついつい人の声に負けてしまう。自分の声にも負けてしまっている。わたしはあらゆるものの奴隷になってしまっている。それに気づかないで、なんとかそれを誤魔化して生きているのだ。人間とは嫌が応にも社会的に生きざるを得ないし、そこまで徹底して他者を切り捨てて生きられるものでもないが、明らかに自分が自分の気持ちを裏切っているのにもかかわらず相手に合わせてしまう弱さは一体なんだろう。これによって私の自尊心はズタズタにされてしまっている。そして、他者は決してそんなことはつゆ知らず、それぞれのおもむくままに、望んだままに生きながらえる。わたしは、その土壌になる。自分のメリットのために、何かしらの契約の際に非常にシビアになるのは当たり前の話である。これはとても大事なことだと思う。だから疑問点や、実態について素直に質問するのは良いことだ。その直感が正しいかどうかは、その際の返答によってはっきりと証明される。ズバッと聞くということが大事である。つい友達や仲の良い間柄であれば、この自分のメリットとデメリットをクリアーにするための懐疑という行為が働きにくくなる。相手に気を使ってしまうからである。あとあと嫌な思いをすることを事前に避けることが大切なのである。だからこそ、ウマイ話には必ず裏があるのであるから、徹底的に洗い出す必要がある。しかし現代はあらゆるものと繋がって、あらゆるサービスを受けて生きている時代だから、全てから離れて生きることはできない。便利さを享受することは正しいことである。しかし、人びとは極めて巧妙である。それも刹那的なものであるから、長い目で見て、それに縛られる必要があるのかよく考えてみることは必要なことだ。極めて身軽であることは大事なことで、いざという時にどうにでも身を振れるだけの身軽さは備えておきたいものだ。そこからのことはどうせ、誰にもわかりはしないのだから。

我々は多くのものに縛られ過ぎている。賃貸、あらゆる支払い、保険、自動車、衣類、お金、人間関係、情、約束、後ろめたさ、向上心、ステップアップ、読者、勉強、習い事、健康志向、インテリア、装飾、食事、仕方、佇まい、こういった瑣末なことにいたるまでの全てが我々を縛り上げており、強迫的にさせないではいられない。あらゆることに意義があると思わせるもの、意見やメディアがいたるところにひしめいて、語りかけてくる。今の時代を生き抜く知恵といった健全な類のものもそうだ。例外はない。あらゆる物に精神の自由を脅かされており、そもそも精神の自由を感じるということがなんなのかすらもわからなくなってきている。わたしは負けてきた。意思にも、博打にも、人にも、時代にも負けた。何かから勝ち取ったものなんて、何もなかった。あらゆる負け癖、あらゆる破滅的指向がわたしを蝕んできたのだ。それらは最初からあったわけではなく、ある時から徐々に習慣になっていったものであろう。人に救いを求めようとしたこともあったが、それも今では幻想であったことがはっきりとわかる‼︎それは幻想であった。人は自分をすくい上げることすら、その知恵すらもままならないのであるのに、他者を救うなんていうことができるはずもなかったのだ。私も少し世の中に触れることで、そのはるか昔の時から明らかなことがより明白になったというだけのことである。これが私の経験なのだ。本当に力のある人間しか、本当の意味での自己実現に至ることはないのだ。資本主義においてはありあまる金が力である。つまり、ありあまる金を所有している人間でなければ、やれ大義だのやれ正義だのを語っても虚しいものでしかない。精神的豊かさを語る人間の心は豊かではない。精神的な豊かさをら獲得することに価値を見出す人間の心は豊かではない。みな、若気の至りにいるのであって、それをどうすることもできないのである。あらゆる実践的な哲学や教えから身を守るということは知ることができるし、より人間的に生きることも学ぶこともできる。しかし、わたしが本当に幸せに生きることを教えらようなものはない。徹底的な懐疑は何かを認めるというプロセスを拒否する。認めたふりをすることはあっても、それに芯から追従することはありえない。あらゆることに触れては離れる。こうしてわたしの本質は、表面ではコミュニティを欲望しつつも、本質的にそれらを全否定している。これは完璧主義の衝動であり、極めて強い自己愛の裏返しでもあり、世界が自分を中心に回っているという自意識に属するものであり、自分が運命の予定によって、然るべきものを、ある時に啓示されるみちのなかにあることを信じている姿でもある。わたしは自らの手で人生を勝ち取るということを知らずに人生から退場することになるかもしれない。この点において、極めて楽天的とも言えるかもしれない。私は私の生命と人生に対してなんら責任を負っていない。強い衝動は破滅的であり、それはあらゆる正義感や、あらゆるレッテルや、あらゆる常識的なものに向けられる。人間たちがよりよく無難に妥協する平和な社会を実現するために、マナーは必要であるし、お互いを深く理解し、助け合うための促進も必要であるが、わたしはそんなものは全て儚い繕いであって、そんなものは繕うくらいであれば、最初から無視すればいいと思うし、次の世代などということも関係ないし、全て無くなってしまうのだから、さも建設的なことをしているかの風にうそぶくのはやめたまえと思う。みな徹底的な死ぬまで自己否定して苦痛のうちに生きて、絶望の中で死ななければならない。全てを偽って生きている人間の傲慢で愚かで、醜い様は見るに耐えない。そしてこういったことがら全てがわたしの弱点になりうる。心の働きを捉えようとする虚しいる努力や、自分をコントロールできるという幻想や、人に嫌われないように企むという愚かさや、自分にはできるという慢心が、全てわたしの弱点である。心が本当に穏やかなものに満たされるのは瞬間的なもので、それが本当にあったことなのどうかも定かではないのだ。そして、そういった感覚は内的なものであって、他者の存在の関わりを予感させないものである。他者について言えることは、そんなに多くはない。いや、言いたいと思うことはそんなに多くはない。みな、思い思いの生を生きている。思い思いの選択をして、死の直前までそれを固持する。そういう生き物である。ただ、少しだけ紆余曲折じみたものが舞台で繰り広げられるというだけである。わたしはもっと道化としての振る舞いを心得るべきなのかもしれない。