うつなわたしのブログ

年々鬱々な日記帳

どの様に生きる

型にはまった考え方を自分に当てはめて理想化する連続性に生きている一方で、他人の生き方に関しては客観的に批判することができるし、ある時には羨みもする。それでもわたしの生き方との関連性を見出すことは出来ない。

それは自分の人生、存在、行動、思考、関係、仕事、創造性、それらすべてに根本的な価値を見出すことができないでいる。幼い頃に宗教的ドグマにおいて徹底した価値観を叩き込まれたことによる反動の抑圧と抑うつが継続しているから、それらの幻想的連続性をもたらし続けているのだと思う。わたしはなにも信じない。信じるに値するものもない。活き活きと生きることになんの関心も持たない。なぜなら、人は活き活きと人を騙し、活き活きと人を裏切り、活き活きと自分を肥やすことに執着するから。そして、活き活きと老いさらばえて、活き活きとした醜さを発散させる。おぞましい。

人間とはかくも醜いものである。そして、わたしもまたしかりであり、それを痛切に感じているのに、なぜ健全に生き生きと生きられるのか、全く不思議でならない。現代の社会というものは生きる価値のない世の中だと思う。

あらゆる人の生き方には興味を持たない、持たない。あらゆる人の言論には興味を惹かれない。なぜなら、人の意思は一過性のもので永遠に続くものではないからだ。それは一過性の儲け話でしかない。

わたしは自己の軸を構築したがっている。そして一方では常に自己への懐疑を感じている。

この流れを変えるためには、これでもかというほどに自分に忠実に生きる事だ。自分を騙すことの罠を察知して回避することだ。回避して回避して回避する。苦手なことや、恐れを回避するのではなく、自分ではない物事を回避するということだ。極めて優秀かつ生き残る人々の特徴の一つは、対話の達人であるということ。対話とは人の話をきちんと聴くということ。段落ごとに、理解をする。あるいは、段落を設ける様に話を誘導して、対話相手の内側を引き出すことだ。とても饒舌に理路整然と、それも意識的に水準より高めの語彙を巧みに取り入れながらトークを作り上げるような人々。そんな賢い人たちですら、やはり、聞き上手に勝つことはできない。聞き上手というもの、対話相手を話し上手にさせるものであるからだ。相手の関心どころや、知的な水準を把握し、ラポールを自然と構築する。構築するするだけの経験があるからだ。そのような達人は才覚もさることながら人との関わってきた量が桁違いである。

相手の表情、仕草、目の動き、お茶への手の運び、会話の内容の近親度、対話のモチベーション、区切り、会話のやめ時、気の利いた一言、ウイット、対話とはそれらの総合戦である。

それらの目指すところは…、いかに自己をフラットにかつ、スポンジにして対話相手に開示できるかということ。そうすればこそ、ようやく自己の本来の好きや嫌いを判断できる。対話に際して、自己を出しすぎる、あるいは自己を隠しきれない、出さないで傾聴しているフリ、聞いているフリというのは、すぐにボロが出るものだ。なぜなら、そういった姿勢は自然なものではないので、いずれ無理がきて、自己矛盾の葛藤の渦に巻き込まれてしまうからだ。

注視すべき点は対話のなかで交わされる言葉にある。その言葉の意味、意図、使い方を正しく汲み取ることで、自他共に思考に深みとエッセンスを得られるはずだ。

そして、本来的に言葉は目的のためのものであるべきだ。何かを建設するためのもの、関係性であったり、仕事であったり、言語であったり。単なる世間話でも、異文化コミュニケーションでも、なんでも。

高い向上心をもつことに遅いことはないし、あらゆることに精通していることは頼もしいことだ。しかしながら人生において極められることは一つしかない。体も人生も一つであるから。フロンティアに赴いて、そこで思考や経験をシャッフルしてフレキシブルにしする刺激的体験を常に身に晒すこと。

そして、自分でじっくり考えること。なにも刺激のないところでじっくり考えたところで大海で変容のあら波に乗り続けることはできない。そうやって取り残されたものたちの悲惨は目に見えているはずなのに。自分が何者かにむいており、それに足るだけの情熱を持てる契機はいつ訪れるのか。それは思索ではなくおもに行動の中から示される。思索だけでは不十分だ。思索による達成ではないし、そういったものを時代は要請していないように思う。枠組みは決めるものではなく、時代から与えられているものであるかもしれない。それを一歩先にでた地点から考えて、投資するのだ。わたしを時代に投機するのだ。