うつなわたしのブログ

年々鬱々な日記帳

晩夏

夏の気だるさ、アスファルトの熱気、花火の音、秋の気配。夏のにおいが、夏の記憶が、無限に圧縮された時間の記憶が、わたしのどこからか湧き出ては消えていく。遠い夏の日はゆめ、可能性、あまったるい幻想、未来の白昼夢、それらは遥か彼方に置かれて、誰か他のひとたちの夢となっていまもどこかで立ち現れては消えていっている。

透明な青い海とグランブルーの誘いが初夏の薄い色の時間とともにわたしにあらわれて、わたしをどこか遠くの国か島へと連れて行こうとした。わたししかいないわたしの部屋には漆黒と、電灯のもれた灯が照らし出す世界とがわたしのリアルで、その静寂はわたしのゆめである漆黒の空をバニラスカイが取って代わるころには夢幻となってわたしの体全体をつつみこむ。そして、時間のない時間の中でひかりの王国を作り上げることを夢見続けていた遠い夏の日が、その鳴動が微かに、夏の終わりの気配とともにわたしを通り過ぎていった。

暇をつぶせない

無意味。あらゆることは無意味なのに、やってやろうという気持ちきなることも稀にある。それは承認を求める気持ちである。暇をつぶすことをする。好きだからやってる、といった時には苦悩や時間への焦りは生じにくい。わたしもまだ社会から尊敬されたいという気持ちがあるようである。そのことがより自由であることを肯定してもらえ、楽になると考えているからであろう。しかしこうも無気力であることを考えてゆけば、そんな社会の尊敬なんていうものが本当に欲しいわけではないこともわかってくる。社会や他者は誰かを尊敬したいわけではない。稀にそういうことにこだわる人がいるかもしれないけれども、それはその人個人の問題を提示しているに過ぎない。わたしは何者にもなりたくはない。プライドというものが薄れてきて無くなってしまうのかもしれない。そんなことが本当にありえるのだろうか。プライドの高い人間のプライドがなくなるこのとなんて。自己を素直に提示、主張するという楽単純明快で健康的な考え方を実践してから、このようにプライドというものに縛られにくくなってきたように思える。生き方、考え方はまさに実践をすることで経験的に蓄積され、理解されるに至るのであるなあと思う。能書きだけでは何も得られないのだ。まだまだ自分が惨めで、無意味で、おどけているということを見破られる恐れが時々生じていて、それが滑稽さを生み、滑稽さはわたしの実存を脅かそうとする。しかし、その滑稽さすらも内包して今のわたしなのだ、ということを見据える。その余裕が出てくることで、より楽に生きられるようになり、無理難題に挑戦できるわたしになっていく。わたしも自分の人生、めまぐるしく様々な価値がゆらぎ濁流の流れの中のように押し流され、なんとか必死にそのなかで自己を保つことのために身を振り分けようとしてきた。どこにも着々することもなく、もはや思想というものがなんの安定剤にもならないことがはっきりと自覚され、なにか究極的なものにすがりたい欲求すらも幻想であると退け、あとにのこったものは単に虚しさと虚無的なこころなわけであるが、誰かれかを非難するきもちもなし、だれかれかを尊敬賞賛するようなこころもなく、ただ生きていくことの苦しみ、迷いながら生きていくことの難しさ、自己を知ることの難しさをただひしひしと痛感し続けるだけである。これらのことはわたしとわたしの環境とわたしの生まれた時代が作り上げたものであって、どうすることもできないことがら、いままでのあらゆる努力、あらゆる人間存在の進化の果てにある現実である。豊かさを享受しているはずなのに、そのこころについては満足することをしることもなく、ただふらふらと、へらへらと、無目的に彷徨くだけの存在。何かを成し遂げたいとか、何かを残したいとか、何かをどうにかしたいという気持ちがわたしには湧き上がってこない。多少そのようなものが見つかった時には喜びたくなるが、どうせ近づけばすぐに消えて亡くなってしまうカゲロウのようなものである、そういうものをわたしの心が捉えているだけで、その実態には虚無しかないということもわかっている。お金が無限にあったとしても解決できない問題は永遠の時や、無限の幸福を買うということ、時代を超越することはいくらお金があってもできないことであるが、たくさんあれば優雅にそれらを忘れながら、いっとき自分の存在をわすれ、幻想を作り上げることができる。まさにお金で作った幻想でしかないが、まるで一つの時代や言葉、価値を作り上げたかのような極めてリアルな錯覚に陥ることができる。熱い風を起こすことができるのがお金というもので、それはもちろんあったほうがこころに余裕ができ、人間的に大きくしていられるだろうと思う。あらゆる形のないものたちがゆらめいている。行き場のないこころが。なにを見ても感動がない、人に何かを期待することもできない。ただ日々のことがらを粛々とこなす人たちに無条件に尊敬を感じはするけれども、どこにも満足そうな顔はないのだから、みなどうしようもないことを、悟っているように感じる。それでも動くことによって自他を結びつけて何かを得ようと、自己を実現するために何かを得ようとして、その達成の喜びに浸ろうと、そのモチベーションを正しいものであると認識するための手筈として用いるために、あらゆるものを興味を示し、人と関わり、自己を洗練させ、お金を作ろうと苦心する。そんなものになんの意味もないのに。圧倒的な金があったら、そんなことに精力を注ぐだろうか。まあ、好き好きであるから、きみたちの好きなように好きな人と関わって好きなものを食べて好きなように人生の計画を立てて、好きなように困り果てて人に迷惑をかけて好きなように自殺でもしてしまえばいいのだろうとおもう。まことに人というのは、みな、いくつになっても本質的にわがままなもので、取り繕う技術だけは超一級であるが、それもその日限りで、2度、3度ともなればすぐにほころびが生じてきて、だいたいその後に化けの皮が剥がれるというパターンであるが、化けの皮が剥がれるころにおいてはもう大抵、そこの人間らは同類であることが多いからさして問題はなく、化けの皮が剥がれない段階で利害や好みが一致しなければ、面目をたもったまま次に行けるというわけだ。苦手な環境で自己を磨くなどという修行僧のような人間なんて稀にいるほどでもなく、たいていは頭の悪い変人か、迷惑な人間、嫌がらせをすることに楽しみを見出す人間、ユーチューバー、そのたもろもろのおバカさんたち。そこそこに頭があれば無為にすることなく快適な環境をみつけだすことができる。そのためにあらゆるうそ、欺瞞、他人を蹴落とす行為、いじめ、なんでもありである。結託し、貶めることも、武器を使うことも、それらも生き残りのための戦術であるし、いやしいものが人間である。それらを知りつつ苦境に堪えるものは修行僧である。だれもそんな危篤なものにはなりたくはない。

トワイス

経験の少ないものは、若いうちはいいが、壮年になる前に決着がついてしまう。壮年になってからも結果を出していけるものは経験のあるものである。経験のあるものは、人を喜ばせることが自然に出来る。言葉の持つ響きや、その使い方においても、磨かれた技を感じられる。

一方で、経験の少ないものは口先や言葉だけが先走る。良いものを詰め込みすぎたあたまは、そのことだけを伝えれば伝わると考えるが、それは逆効果である。もっとも、同じレベルの相手には伝わるのかもしれない。でも、そんなに遠くないうちに化けの皮が剥がれる。たぶん、本人も気づいていないだろうから、それは苦労して苦しむことになるかもしれない。みている幻想が輝いているだけに。

初回はわたしの勘違いだったのかもしれない。鋭さは、言葉自体の持つ鋭さであったのだ。ある意味、わたし自身の言葉に対するセンサーがしっかりと働いていたということであると言える。使い手の底が知れてしまえば、その言葉がいかに鋭い力を持っていようとも、まったく効果はない。むしろ、程度の全容がわかってしまった後にはどんな調子の良い言葉も退屈でしかない。輝かしい言葉なんかよりも、泥臭いもっと生の言葉が聞きたいのだろう。理想や将来に起こることを述べるなではなく、いまなにに悩んでいるのか、自分に足りないどんなことがらに苦しめられているのか。かっこうをつけることが、それに見合うだけのものが伴っていなければ滑稽にすら感じられる。

感性や波長の合う合わないもある。そんななかで直感による選抜、みる目を養う力と、まめに連絡を取り合うことを大事にしたい。しかしなによりも厳しいことは飛び込むことだ。

あくまで対岸の火事という態度では、それは誰もが関心を持たないのも当然だ。まだまだ共同体やコミュニティはある。いや無限にある。探していかなければ。

 

複雑な家庭、女の群れ、宗教と個人と

殺意かなあ。憎悪かなあ。呪いかなあ。ギャップもあったのかもしれないけれども、なんと形容していいのか、あの目は知っている気がした。子を持つ親の、破壊者たちから子を守るための、妻を守るための、いや、それだけではなく、心の底から湧き上がる、それも日々感じていること、人生の暗闇、復讐すべき敵、いやれらとも微妙に違う気がする。

メデューサか、オディロンルドンの目か、決して普段は人に見せない顔だろうなあ。おそらく、それを知る人はいないのではないかなとおもう。わたしが、そういう目をさせるような仕草や目を、先にしてしまったのかもしれない。

神経質に、腫れ物に触るような仕草で、かつ仕事と使命感でそれをしているという物腰が必要であったのだろう。わたしのなかに、侮辱をみつけたのかもしれない。無知ではなく、知りながらの、つまり面白半分のような気取りと受け取られたのかもしれない。もし、そうであればあの目は納得がいく。わたしのなかに、面白半分であり、相手方への敬意にかけており、軽率であったという自覚も多少はあるなかでの出来事である。目の中にそのような怒りをたたえながら、目を見開き、見据えつつ目で、いや、その全身で威圧する人の心の機微は、わかるような気がする。闇がある。家族の闇があるなと思った。まったく普通ではない。むしろ、わたしに親和性がある方の闇。決して軽口を叩いてはいけない闇である。わたし以外のものたちは、おのおのに軽口をもっともそうにそれだと述べていたが、あの目の意味を理解できるような神経を持ち合わせている人間はとうぜん、いない。そんなことはわかっているからこそ、その目をらできる人と、その目の意味について思い巡らすことができるわたし、わたしとその目だけが錯綜する世界。出口は塞がれてしまった。この恐怖を紐解くことに疲れてはいけない。学ぶべきことがたくさんあるはずである。心の奥の感触に、この違和感、この不安から目を背けてはいけない。あらゆるお世辞、直感、自己肯定感を高めてくれるスパイスなど、そんなものならばあらかたを吹き飛ばし、地獄の底に突き落とすようなパワーがある。人の目というのはそういうものかもしれない。メッセージが言葉ではないからないがしろにしていいのか?そんなことはない。間違ってはいけない。仕草であろうと、目線であろうと、その人が発するメッセージの意味を読み取らなければならない。メッセージに対して理性的であることを放棄してはいけない。それだけではなく、その磁場を、ただ快適な場にするような誘惑に屈してはいけない。あの目は、釘をさすというこであったようにも捉えることができるかもしれない。警告文である。それも、最後通知であると思う。そして、それは適切であると思う。わたしはまたしても思い知らされる。自分の行動の不適切を。結果的にもっとも知的に劣るものは、わたしであるということができる。目的なく、計算なく作られた砂上の楼閣である。

複雑すぎるリモコン

半狂乱になる。

怒り狂う。

わたしの努力が無駄になったことと、努力を省みるべき人間がわたしを無自覚に裏切るということに耐えられなくなる。そして、その人間はわたしでもあるから、まさに半狂乱になる原因はわたしである。まったくの他者はわたしに対してなんの現実味ももたない。わたしは、他者に心地の良い環境を提供したいと思って必死に複雑なリモコンを操作する。彼ら、彼女らを喜ばせようとして、わたしは頑張る。少なくとも、そういう気持ちを持っていた。だから、その少ない時間、彼らはトイレにでもいっていて、戻ってくるまでの間に、肌寒いから空調の温度を上げ、風量の調整をして、風向きをかえるために必死に操作する。あれや、これやと電子図面のようなボタンの群れ、変わった形のスイッチなどをいろいろ試してみる。なんとか理想通りの形に落ち着けたものの、みんなが戻ってこない。かすかに聞こえていたざわめきもなくなっている。不安を感じて確認しにいくと、危惧した通り、案の定モンスターが彼らを追い出してしまっていた。なぜ、誰もわたしに声をかけに来てくれなかったのか、いわれるがままに?理性をなくして暴れるが、モンスターは人形のようにソファーにもたれかかり、無表情である。ただ一方的に消耗してゆくわたし。涙が止まらなく視界が霞む。誰もいないはずの部屋に戻ると人がいるが、それの顔を見てはいけないと感じる。それは、ドッペルゲンガーのようである。夢に出てくるもう一人のわたしであり、その姿を見ることはできないのだ。脳が痺れ、視界が歪む、涙のせいかもしれないが、その姿を見ることはできないのだ。それは悪魔かもしれないし、わたしの魂を揺るがすものなのだと直感的に感じ取る。わたしは、その姿を見ることができない。それは、とっさに姿を変える。人の姿ではなくなり、エイリアンのような姿に形を変えて、徐々に泡のようになり、蒸発してしまうのだ。別の部屋にも人がいて、懐かしいソファーに座っている。それも、姿を直視しようとすると姿をエイリアンのように変えて消えてしまった。人形のようになり、カーテンに揺られながら仰け反るそれに向かい合いながら、わたしは、それらが幻視であったことを悟る。そして、目の前のモンスターが過去にそうだったように、わたしの中にもそのような幻視をもたらす因子があり、似たような存在であることに気づき吐き気を催し、全身から力が抜け、絶望に覆われていくように感じ、あらゆることが単なる空虚であると悟る。

ワクワクした気持ち、まつあいだの情熱、不安、激昂、悲しみ、恐れ、あらゆる感情がわたしのなかで流れきってしまったように感じ、後に残されたものが、欠陥であること、欠陥を抱えながら絶望の中を孤独に行かねばならないことを想い、やりきれなく項垂れ、目の前が真っ暗になった。

ポイントはなんだろう。重要なワードはなんだったのだろう。無意識がわたしに教えてくれることはなんだろう。罪悪感はあっただろうか。単に無力感と、孤独感があっただけだろうか。

とにかく、大勢が離れていく、それがどんな原因によるものかはさておき、結果として孤独になるという点は象徴的である。わたしが人とのつながりを求める時に、モノを複雑に操作するという点にも象徴性が宿っているように思える。わたし自身の身体を、全身全霊をかけて人と関わろうとは決してしない。妨害のせいだろうか。かつてはそうであったかもしれないし、それは憐れまれるべきことであったと思うが、それをもはや口実にすることはできない。過去はもうないのだから、過去にこだわって見たところでどうすることもできないのだから、これから私が出来ることに焦点を当てなければならない。それは、過去から学ぶということだ。私は環境を乗り越えて行かなければならない。乗り越えることができたと感じても、度々過去に引き戻されることはあるかもしれない。それも私の中に眠っている真面目な私である。それを消すことはできない。そのチップは一生埋め込まれたままで、時折悪さをすることがあるが、決して本質ではない。それは、環境因子が年月をかけて作り出したもの、わたしの血肉で養われたもの。切り離せないもの。消し去ることはできないもの。思い知らされる。どうすればいいのかな。

でも、これを一区切りにしたい。

無意識の海がすくい上げてきたこの明確なイメージに、答えを与えてやることが意識の役割である。こんなものはまやかしだと突き放して忘れたふりをするのは自分の今後のためにはならない。このイメージを受け止めてあげることがとても大事であると思う。そして、出来るだけ解釈してやるべきだ。リモコンを操作することに意味がなかったわけじゃあないし、現に"大勢の友達や知人"のような人々が、同じ空間にいたということがポイントだ。そのときわたしは何をしていたのか。部屋の端っこで何か一人でしていたのではないのかな。それがわたしなんだと思う。運命が、環境がわたしを孤独に追いやった面もあるが、それだけではない。わたしから孤独を選んできた面もあるということだ。そして、自立をする苦労を取らずにきたのもわたしの選択である。わたしは、時間を味方につけて、あらゆる悪、サビが消えていくまで耐えようとした。それが達成されたら本当の自由、本当の孤独、良い意味での孤独になれて、そこから人生が再開するのだと思っていた。それを感じてみたいとおもっている。それは、そのうち達成されるだろうが、達成された後もわたし自身の中に流れる病質的な遺伝子が消えて無くなるわけではない。それは、わたしが生存し続ける限り、わたしの意思とは無関係に私の中で様々に形を変えながらも生き続けるであろう。わたしの意識が、どこまで本質を変容させられるのかはわからない。それでも、敵を知り、戦いを挑んでいかなければ達成の喜びを味わうこともなく、なにもなく終わってしまう。それは、やはり悲しいことだと思う。

複雑すぎるリモコンをオタクのように弄り回して、完璧に操作できるようになる頃には、その満足だけが残り、人との交流は、完全に失われてしまう。そんなクソみたいなリモコンを操作することをわたしはさほど望んではいなかった。それは、みんなのためであったのだから、みんなの存在の方がわたしに必要なのである。あるいはみんなの中の誰かが必要であったのだ。それに注意を向けずに、複雑なリモコンに注意を向け用としたのは欺瞞である。自分に対する欺瞞である。その欺瞞は、肉親に対する憎悪に変換されていく。もちろんストレッサーではあったが、あらゆることは自分の本当の欲求を自ら抑圧することに起因する。なぜ自ら抑圧するのか。抑圧する癖がついたのは、間違いなく環境の因子が影響している。その環境を作り出したのはわたしではないが、環境の影響による弊害である、というところまで理解できている以上は、この欺瞞を続けることにのし掛かる自己の責任を避け続けることはできない。もっとも、日本人のわたしにとってシビアなコントロール、それも命に関係する、人間の最も根源的な部分に対する歪んだコントロールを受けたことへの影響力を、だれもが過小評価することは許せることではないが、それを言っても始まらないし、だれもかれもが、当事者までもがそのことに対して関心がなく、いや、むしろ関心を放棄しているという事実をわたしは知っているので、口をつぐむしかないのである。なぜなら、そのことに関するわたしの真の望みを与えるだけの叡智は、人間には与えられておらず、せいぜいまとはずれか、斜め上からの同情をもらって、その見当違いさに悶々としながらも、感謝してわたしは恵まれていると、自己に言い聞かせながら生活する、それなりの欺瞞がせいぜいといったところであろう。

わたしはリモコンをみることで目をそらすことができた。そして、操作し、状態を整えることに成功するが、そこにおかれるはずの人々はいなくなってしまうのだ。では、リモコンを必死に操作したわたしに意味はあったのだろうか?リモコンを操作することをわたし以外の誰かかわはっきりと望んだだろうか?いや、だれもそれを口にはしていない。わたしがそう意気込んでやったことなのだ。つまり、コミュニケーションがない状態からわたしがより親しくなるためのコミュニケーションのための土壌づくりをはじめたというわけだ。ポイントは、まずはじめにコミュニケーションがなかったという点がである。わたしの行動は、近視眼的で飛躍している。そして、アスペルガー的要素を内包している。そして、自己憐憫がある。わたしは、あらゆる手段を用いてこの自己憐憫という感情から抜け出そうとしてきた。しかし、原理的に、その本質は他者からえられる愛情では賄えないものかもしれない。その目的が非常に幼児的であるから、退行の兆しをみてとれるかもしれない。もっとも、立派な大人というものは像、またはイメージであって、どんな人にも幼児性があり、ある場面においてそれが顕著になることは不思議なことではない。大人というのは幻想であって、言い換えれば大人のふりをするのが上手な存在と言えると思う。とはいえ、退行を示す感情に囚われたイメージ(夢)は、わたしの深層心理から湧き出てきたものであるので、全くわたしの問題であるから、その前後関係における文脈を慎重に解釈する過程が、理解形成において非常に重要な意味をもつはずである。

わたしにとっては、理解されないこと、無神経に無理解なことをし、反省の気持ちを持たない感覚に対して、などである。リモコンを弄るのは、自己満足という見方も出来るが、それは他者に対する優しさでもある。もっと体当たり的なコミュニケーションが必要なのかもしれない、なぜなら、その方が世間的には良い特質とされる優しさを、より実利的に他者は提供することができるからである。つまり、リモコンを操作することが、仕事からであれば、その報酬を貰えるし、それがはっきりとお願いされたものであれば、相手から感謝をもらえるボランティアになる。わたしから遠いものが実利の考え方であり、そのためには、まず現実的ではっきりとした二者間のコミュニケーションというものが必要である。わたしは、どれだけ親しい間柄の友達に対しても、このコミュニケーションというものを取ってきたことがなかったから、このように、リモコン操作に熱中するあまり機を逃し、自己憐憫に陥るといったパターンが生じてくるのは無理からぬことである。それは、まさにわたしの生きてきた形そのものである。それを、象徴的に、かつ実際にあった事柄をコラージュ作品のように纏め上げて、一つのイメージとしてわたしにみせたということだ。どの部分も、断片的に精査すると、自分の事柄であることがわかってくる。

記憶

逸脱行為は当時からあったなあ。

なんでだろう。

みんなにみせてやりたかったのかもしれない。

誇示しようとしていたんだとおもう。常にそれを誇示するチャンスをうかがっていたのだとおもう。もちろん突発的ではあったし、突発的な瞬間の記憶しか定かではないのだけれども、素養なしにことがいきなり起こるものでもない。わたしのなかにそのような異常性を誇示しようとする傾向があって、そのタイミングにそれをしたということだろう。目撃者もいて、その第三者の表情が忘れられないし、その表情をみるためにそれをしたといってもいいかもしれない。見せつけるということが重要だった。同情を買おうとする一つの戦略で、この場合は『孤立』のための戦略になっていて、心の底から望むものとは相反しているわけなのだが、それを言葉によって他者と共有する術や、そういった有用性というものに気づけていなかったのだろう。誇示の裏には、私的なヘルプメッセージを込めていたつもりだったのだろうけれども、他者の中に自分の解釈を投影していたわたしにとっては、今思えば望むことができないことをして、あえて自らストイックな苦境に落とし込もうとしていたように思える。いや、それでもよかったのかもしれない。その行為をすることによって、わたしの中の抑圧されたわたしがある種の解放の喜びの状態に浸ることができたのだから。それは、その後、わたしの後悔、わたしの黒歴史みたいなものになって、わたしのなかで消化されてさほど意味のない過去の記号のひとつとされていくのだけれども、そのことをいまになって思い出すにつれ、その行為の持つ意味、だれの中にもあるかもしれないある衝動を、ある意味正確なタイミングで演じようとする度胸というべきか。そのような大胆さと、強いSOSをはっするエネルギーがあったことに驚いてしまう。同時に、そのような状態をわたしに許してしまった環境にも憎悪を感じる。

stressor

いまいちだな。ちぐはぐな付き合い方ばかりをしてきたせいで、まったく自分のあり方を見失ってしまっている。

ちぐはぐさは元からか。

熱しやすく冷めやすい性格ということを掘り下げたことはあまり無かったと思う。

でも大抵のことは掘り下げると幼少期のトラウマ体験に行き着くことが多いし、そこに着地させることが楽である。

物事にしても、対人関係にしても、もっぱら動機付けは似ている。人の関心を引くということが大きな動機付けになっているということ。それは、親しい人かもしれないし、血の繋がりがある人であったりもする。私は、両親から関心を示されることがあまりなかった。

関心を示されることといえば『したいこと』をしようとしたときに感情的な否定を全身に浴びせられるということであったが、それは私に対する関心ではなく、両親にとっての関心ごとであった。

したいことをしようとする私に対して素直な関心を持ってくれる人物をわたしのなかに作り出すことが、防衛であったので、わたしはわたしのなかに心地の良い世界を作り出して、そこに自分を置くことで精神の安定を手に入れようとしたのだと思う。それは普通のことだとおもうけれども、普通の家庭からしてみれば悲しいことである。

根本のところには、わたしのすることに否定的態度を取る親というパターン反応が植え付けられてしまったので、人に対しても、自分に対しても素直な気持ちを出すことをしない方がベターだということになった。

しかしながら、素直な気持ちではなくても人から認められたいといった承認欲求は普通にあったので、それが結果的に様々な無駄、無駄な時間を費やす結果に。

全ての原因は、家庭と親にある。精神的に未熟である。それは、知能が人より足りていないのではなく、情操という人間に極めて重要な感情を育てることができなかった事による。

この情操を甘くみている親は多い。それは生まれつきの疾患ではなく、育つ過程における親から子に与えられるべき栄養のようなものである。これを与えられないままに育ってしまうと、社会的な困難を感じ続けるような人間が出来上がる。外交的で、この情操や情緒を他者から積極的に獲得する能力に長けた人間であれば『おやが悪い』とは考えにくいだろうし、社会的な場で、そのようなことを言うことにはデメリットしかないことをよく知っている。いい歳をして親のせいばかりにする精神的に未熟な人間だと考えられてしまうのがオチであるし、誰だって込み入った個々の事情などに興味はないからだ。

問題は、問題を言語化できず、他者との関わりを望んでいるのにもかかわらずそれが苦痛で行動に至らない、内向的な人である。

手っ取り早いのは、精神科で診断を取り、甘えではなく病気であるというステイタスを自分のものにすることだ。しかし、これではことの、根本の問題解決にた当然、いたらない。別にいたらなくてもいいと思うけれども、それが問題であるということに気づける知能があると、葛藤を抱えながら生きていくはめになる。

熱しやすく冷めやすいというパターン反応は、わたしにとっては、一つの問題の行動化であった。熱しやすく冷めやすいという一般的なカテゴリーに収めることができるので、普通人との共通認識を持てるとして安心することができる。それに、まったく何事にも着手しない、できないというほどの深刻な病態ではないというアピールでもある。

誰かに認められたいから?期待以上の結果を残して、誰かに驚かれる経験が欲しい?いい加減なやつで飽きっぽい無精ものというイメージを返上したい?モチベーションを誰かに与えることは、人の喜びである。インスピレーションを誰かにあたえる能力は愛情であるかもしれない。わたしは、これらの期待を一方的に裏切るのが大好きだ。承認欲求は、わたしにとってはある程度のところで満足してしまえるものであり、それ以上のもの、相手の期待という段になるにつれシラケになってしまう。理解できるだろうか。ようするに、もともと何かに熱しているときのわたしの姿はうそなのである。本質的にうそなのである。表面的には、わたし自身が趣味を持ち満足しており、まわりも応援してくれる気持ちの良い絵面であるかもしれないが、そもそもすべてが滑稽である。ある程度の承認を得られたと感じたら、全てをぶち壊すというのはわたしの脚本である。

この脚本を書いたのはいつかは定かではない。

恐らくは幼少期なのかもしれないが、過去の記憶はあまりない。遡るほどに。

つい数年前のことですらも、夢のことのようだ。

端的にいえば復讐である。

狭い世界。

しかし、たしかにこの狭い世界の中で生きながら虎視眈々と復讐の機会を狙っている人間は存在している。

世間を騒がせるような犯罪を犯してしまった人たちのニュースを目にすると、またわたしが捕まったと感じる。わたしにとっては人ごとのようなものではないからだ。世間は飯の種のために好きなようにストーリーを作り読者や視聴者を飽きさせない。しかし、その心理の深みにまでは決して踏み込もうとしない。同情は不要である、というのも一つであるが、彼らの心理を察するだけの感覚を備える人間はごく少数であるからだと思う。ニッチな分野に対してセールスをする人間もまた少数である。

わたしは若いうちに全てを失うような大々的なことをしでかしたりはしなかったが、その萌芽はいつもとなりにあった。

そうならなかったのはたまたまだ。あるいは、熱しやすく冷めやすいという一つのパターンを利用しながら、犯罪性のない復讐を繰り返していくことができたからかもしれない。

そして、情操ではないかもしれないが、一つの落ち着きを手に入れることができた。それは諦め、老い、寛容かもしれない。

人が犯す異様なことがらも決して理解ができないことではない。脳の器質的問題がある人は抜きにしても、そのような情操を与えられなかった人間が、そういった惨めな気持ちに沈めるだけの感情を持てる人間が、人との信頼関係や愛情を理解するための柱であるはずの親を頼れないと悟ったとき、その内向性から他者との関係性を築けずに、だれにも理解されない、理解しあえない、そもそも理解をするということが、本質的に不能であると理解したときに、全身全霊をかけて自他の破壊にエネルギーを用いるのはそこまでおかしな話ではない。