うつなわたしのブログ

年々鬱々な日記帳

今を生きている人

すべてのことと、今起きていることに感謝して生きている人と話す機会があった。

理路整然としており、物腰は穏やかなのだけれども、それでいて芯のある声で上手に話す。

自律神経が整っており会話が知的なので、心地よく過ごすことができた。

表現やアドバイスも率直である。自分も他人も、人との出会いを大切にされている方だ。

本当にいろんな人がいるものだ。実は仏様のような詐欺師だったのかもしれないが、久しぶりに人を真剣に見つめるということをしてきて、生きている心地がした。

考え方は人の数だけある

あらゆる考え方が世の中にはある。

自分の人生の盤面において、最適でかつ最強の一手はなにか、ということを日夜考えている。

お金持ちになることが、私の人生の盤面におけるゴールであるなら、ビジネスのことや、お金儲けの話についての本を読み、メンターを探す努力をしなければならないかもしれない。

理想の彼女を作ることが私の人生の当面のゴールであるならば、まず女性と出会うことと、女性を口説くスキルや愉しませるスキルを身につけてなければいけないだろう。

一般常識というものに沿って生きることが楽であるならば、まずは仕事を探すことだ。仕事を探して、しっかり取り組んで、自信をつけていくこと。忙しく過ごすことで、くだらない悩みに取り付かれないようにする。一人前に生きている、自立感を覚えれば色んなことが楽しくなってきて、充実した人生を送れるかもしれない。

あるいは、今までのあらゆる怨恨を表出して人を困らせ、犯罪を犯し、刑務所に入るという手段もあるかもしれない。自殺を遂行すれば、盤面を完全にひっくり返してなかったことにしてしまうこともできる。

楽に生きるためのあらゆる考え方がある。魂の救済のためのあらゆる教えがある。

学ぶべきことも無限にある。きちんと良書や賢人の知恵に対して向かい合えば、私の人生をより良くするための妙薬に不足することもない。

 

あらゆる選択肢がある。

あらゆる最強の一手がある。

 

しかしながら私はいつまで経ってもただ一手を打ち、盤面を先に進めることができないのだ。

私は私の物語に絡めとられてそのままおぼれていってしまう。

失敗し、悩み、打ち明けられず、困り、罪悪感に引きずられ、気持ちの悪い事柄に対してまで受動的になり、一番望んでいないものに対してもいたわりの心を提示しつづけ、そのことに対してもうんざりしてしまい、だれにもそれを打ち明けられないまま、悩む。

 

過去とひとにとらわれている。

 

憂鬱ですな。

なにかしなければならなくて、やることもわかってるんだけどなんにもまったくしたくない。

それでいながら、何もしてないで部屋に居続けることも耐えられない。

八方塞がりで辛い。

妙な隙間に落ち込んでしまったみたい。みんな、そんなわたしには気づいてくれないで素通りしていってしまう。淡々とした無為な時間が過ぎ去っていく。

手を動かして、人と話せば少し楽になる。

それでも毎日の生活が苦痛で仕方がない。

ノートをまた購入したけれども書くことがない。もう書くことがないんだ。

決定的に違う

ひどく甘えていること。状態に甘んじてなに一つ本気で取り組んでいないこと。そのわけをあらゆることのせいにしてきていたけれども、これからはなんのせいにすることもできなくなってきていること。

 

まだ時間と選択肢と悩む時間があると思っている。宿題とか、試験とか、なにか締め切りがあるものについてギリギリまでしないでいて、前の日になってから急いで本番を迎えるような、山師的な生き方がそのまま人生にも当てはまられようとしてる。生き方のパターンをすでに決めているのかもしれない。

 

したいことなどない。

なにかあればラッキー。

最後は一人でどこか遠くへ。

 

結婚はしない。

子供も欲しくない。

友達も今までの関係で十分。

自分の未来を作ろうとは思わない。

社会人としての責任感はない。

暇な時間は誰かの時間で動くけど、人の為ではなく、暇を潰してるだけ。

人に何かをするのは自尊心のため。

自分からはなにもしない。

あらゆる興味がない。

劣等感まみれ。

軽蔑。

 

自分を高める生き方というものがブームで、あらゆる手法や考え方が陳列されている。好きなものをその日その日の気分で手にとって、新しい自己になった気になる。

それが人間の本質で、これがわたしの道、これがわたしの生きる意味などとはっきり理解している人間は取り憑かれか、非常に聡明なのか、どちらにせよおめでたい話である。

 

なにが真面目に生きるだ、なにが家庭を守るだ、なにが幸せになりたいだ、そんなものは全部幻想であるのに。人は死ぬまで都合のよい自分勝手な解釈をし続けながら生きる生き物である。それがわかっているので、わたし自身いやになるのだ。本当にこれでよかった、後悔はないなんて言えるものがあるわけがないではないか。みな、嘘に生きて嘘に死ぬのだ。

そして、あらゆることは幻のなのに。

 

生きてる意味

ある人達と話すとダメかもしれない。ならば、もっともっと心に深く差し込まれているものはどうだろうか。わたしはそのものをもっている。それがわたしを腐らせる。わたしがわたしである限り、それらに振り回されて、なにも楽しむこともなく、誰に見られることもなく、ただあることを受け入れ続けなければならないのか。わたしは考える、人を探し続けて、わたしのもつなにかを引き受けて欲しいと願う。旅することに疲れ果ててしまいそうだ。こころのかわいたものを、こころのみだれたものを、こころのしぼんだ形を、だれかにひきうけてほしい。誰かに何かをみてほしいとはおもわない。だれかの役に立ちたいとは思わない。自分のために生きようともおもえない。あらゆる世の中のことがらを感じていくことがわたしには辛すぎて、それらが無であるということを受け入れることができない。わたしが無であるということを受け入れることができない。わたしはこの世になぜ存在しているのかがわからない。このようにわからないことを考えることが宿命づけられていたのではないかとすらおもえる。人はなにもわからない、わかろうとして前に進みわからないまま、満たされないまま、願いを残して消えていくのだ。ねえ、あれはどうなったの、ねえ、あれはなんでしなかったの、ねえ、あのひととはなぜ関わっているの。後に残されたことはわたしの影響の後始末だけ。することはわたしのしたいことではなく、だれかの影を自分ごとなのだと思い違いしているだけであって、究極的にわたしはわたしにはなれないし、究極的にだれかのわたしであるわけでもなく、ただそのかたちを止めることに精一杯な弱く儚いゆめであった。

あかるい

次々と隣の建造物が取り壊されていって、更に遠くが見渡せるようになってきた。心地が良い。本来みえるものが隠されていたのだなあ。

 

この景色を見て育っていたら違った人生になっていただろうか。みえる景色一つで、精神も変わっていただろうか。

見えないことが当たり前になりすぎていたのではないだろうか。

 

遠くが見えないところに住むということはよくないことだ。現代の都市は、周りに住処やものがありすぎる。こんなジメジメしたところで暮らすことなんて、ましてや育つことなんて。

心もろ体も萎縮してしまっていた。

 

みえる、ということはとても大事なことだ。

みえていなかった、ということに気づかなければ、それがわからなかったのだから、恐ろしいことだ。

 

みえると気分がかわる。現環境の印象もかわってくる。不思議だ。見え方の問題だけなのに、こころの形まで変わってしまうのだ。ひとは本当に環境に左右される生き物だ。

 

みえること。