うつなわたしのブログ

年々鬱々な日記帳

治療者

アール氏はわたしにとっての治療者である。もちろんアール氏にはそんな腹づもりもないだろうし、そういった治療者とクライアントの関係性からなるものでもないのだが、結果的にそのような風にわたしに刺激を与えているように思える。

この場合、ある約束事を順当に守り続けることが、治療の一環になりうることを発見した。それはつまるところわたし自身の防衛的自己愛からこぼれ落ちた雫でもあったのだが、それを常に、その約束事と絡めて関連する際に、わたし自身にワタシの正体を知らしめることに、一役買っている。こういった合理化を推し進めることに安心を覚えるロジック自体にもやはり、防衛が働いているのであるが、齢を重ねたことによる寛容と、弛緩がその神経質にするような型への押し込みというのは和らいで、人間的な弱さといったものや、自己の過去にまつわる仕方のない事柄を、ある程度包括して許し、ありのままの姿を肯定しうるだけの許容が作られ始めているからこそ、という条件も手伝っているに違いない。

自他共に、創り上げることを学ぶことを、学ばせていただいているように思える。この治療過程がどのように終わりをつげることになるのかははっきりとわからないのだが、自己にとって明らかに不足しており、トータルでの人格形成への上でアンバランスになっていた部分を補いうるものであるということは感覚的な確信を持てていることである。同じパターンを繰り返すことを避けるだけの智恵をもって欠損した情動を補って、絶えずゼロの自己をもってして、ワタシという存在を見つめ直すためのプロセスの中に入ったのであり、わたしにはそれを成し遂げるだけの能力が備わっていると思う。そして再度感謝し、確信できることは、決して哲学的な自閉や、宗教的な信心の上にわたしの失われた人間性を完全に立て直す方法があるわけではないということ。そのプロセスは恐ろしく地味で勇気が必要で、延々と続くような忍耐ではないかと思う。しかしわたしは、あらゆることが経験と言葉と寛容と向上心によって、新しいもの、新しい時代を作り出すのだということを知るべきだし、その静かな高揚と、ほんとうの意味での楽観主義を身につけるためのものであると感じている。わたしの内部には、あらゆる懐疑主義、悲観主義、虚無たちが既に全身に住み着いている。しかし、これらと本当の楽観主義が同居できないとは思えない。わたしにとっては常に、双極の融和が至上命題なのだから、このくらいでちょうどいいのだ。

確かにそういう観点においてもアール氏の存在というものは、わたしの内的成長をあたたかく促す存在であると思えるし、そう思うべきである。