うつなわたしのブログ

年々鬱々な日記帳

暇をつぶせない

無意味。あらゆることは無意味なのに、やってやろうという気持ちきなることも稀にある。それは承認を求める気持ちである。暇をつぶすことをする。好きだからやってる、といった時には苦悩や時間への焦りは生じにくい。わたしもまだ社会から尊敬されたいという気持ちがあるようである。そのことがより自由であることを肯定してもらえ、楽になると考えているからであろう。しかしこうも無気力であることを考えてゆけば、そんな社会の尊敬なんていうものが本当に欲しいわけではないこともわかってくる。社会や他者は誰かを尊敬したいわけではない。稀にそういうことにこだわる人がいるかもしれないけれども、それはその人個人の問題を提示しているに過ぎない。わたしは何者にもなりたくはない。プライドというものが薄れてきて無くなってしまうのかもしれない。そんなことが本当にありえるのだろうか。プライドの高い人間のプライドがなくなるこのとなんて。自己を素直に提示、主張するという楽単純明快で健康的な考え方を実践してから、このようにプライドというものに縛られにくくなってきたように思える。生き方、考え方はまさに実践をすることで経験的に蓄積され、理解されるに至るのであるなあと思う。能書きだけでは何も得られないのだ。まだまだ自分が惨めで、無意味で、おどけているということを見破られる恐れが時々生じていて、それが滑稽さを生み、滑稽さはわたしの実存を脅かそうとする。しかし、その滑稽さすらも内包して今のわたしなのだ、ということを見据える。その余裕が出てくることで、より楽に生きられるようになり、無理難題に挑戦できるわたしになっていく。わたしも自分の人生、めまぐるしく様々な価値がゆらぎ濁流の流れの中のように押し流され、なんとか必死にそのなかで自己を保つことのために身を振り分けようとしてきた。どこにも着々することもなく、もはや思想というものがなんの安定剤にもならないことがはっきりと自覚され、なにか究極的なものにすがりたい欲求すらも幻想であると退け、あとにのこったものは単に虚しさと虚無的なこころなわけであるが、誰かれかを非難するきもちもなし、だれかれかを尊敬賞賛するようなこころもなく、ただ生きていくことの苦しみ、迷いながら生きていくことの難しさ、自己を知ることの難しさをただひしひしと痛感し続けるだけである。これらのことはわたしとわたしの環境とわたしの生まれた時代が作り上げたものであって、どうすることもできないことがら、いままでのあらゆる努力、あらゆる人間存在の進化の果てにある現実である。豊かさを享受しているはずなのに、そのこころについては満足することをしることもなく、ただふらふらと、へらへらと、無目的に彷徨くだけの存在。何かを成し遂げたいとか、何かを残したいとか、何かをどうにかしたいという気持ちがわたしには湧き上がってこない。多少そのようなものが見つかった時には喜びたくなるが、どうせ近づけばすぐに消えて亡くなってしまうカゲロウのようなものである、そういうものをわたしの心が捉えているだけで、その実態には虚無しかないということもわかっている。お金が無限にあったとしても解決できない問題は永遠の時や、無限の幸福を買うということ、時代を超越することはいくらお金があってもできないことであるが、たくさんあれば優雅にそれらを忘れながら、いっとき自分の存在をわすれ、幻想を作り上げることができる。まさにお金で作った幻想でしかないが、まるで一つの時代や言葉、価値を作り上げたかのような極めてリアルな錯覚に陥ることができる。熱い風を起こすことができるのがお金というもので、それはもちろんあったほうがこころに余裕ができ、人間的に大きくしていられるだろうと思う。あらゆる形のないものたちがゆらめいている。行き場のないこころが。なにを見ても感動がない、人に何かを期待することもできない。ただ日々のことがらを粛々とこなす人たちに無条件に尊敬を感じはするけれども、どこにも満足そうな顔はないのだから、みなどうしようもないことを、悟っているように感じる。それでも動くことによって自他を結びつけて何かを得ようと、自己を実現するために何かを得ようとして、その達成の喜びに浸ろうと、そのモチベーションを正しいものであると認識するための手筈として用いるために、あらゆるものを興味を示し、人と関わり、自己を洗練させ、お金を作ろうと苦心する。そんなものになんの意味もないのに。圧倒的な金があったら、そんなことに精力を注ぐだろうか。まあ、好き好きであるから、きみたちの好きなように好きな人と関わって好きなものを食べて好きなように人生の計画を立てて、好きなように困り果てて人に迷惑をかけて好きなように自殺でもしてしまえばいいのだろうとおもう。まことに人というのは、みな、いくつになっても本質的にわがままなもので、取り繕う技術だけは超一級であるが、それもその日限りで、2度、3度ともなればすぐにほころびが生じてきて、だいたいその後に化けの皮が剥がれるというパターンであるが、化けの皮が剥がれるころにおいてはもう大抵、そこの人間らは同類であることが多いからさして問題はなく、化けの皮が剥がれない段階で利害や好みが一致しなければ、面目をたもったまま次に行けるというわけだ。苦手な環境で自己を磨くなどという修行僧のような人間なんて稀にいるほどでもなく、たいていは頭の悪い変人か、迷惑な人間、嫌がらせをすることに楽しみを見出す人間、ユーチューバー、そのたもろもろのおバカさんたち。そこそこに頭があれば無為にすることなく快適な環境をみつけだすことができる。そのためにあらゆるうそ、欺瞞、他人を蹴落とす行為、いじめ、なんでもありである。結託し、貶めることも、武器を使うことも、それらも生き残りのための戦術であるし、いやしいものが人間である。それらを知りつつ苦境に堪えるものは修行僧である。だれもそんな危篤なものにはなりたくはない。