うつなわたしのブログ

年々鬱々な日記帳

少しずつだけども…

俺はよくやってると思う。自分をしっかり褒めてあげる。いやあ、本当によく頑張ってるし、ちゃんと勇気を持ってすべきことをしてる。偉い‼︎

ちょっとばかり神経を使って頭もフラフラしてて、目も乾燥してて疲労気味ではあるけれども、とても収穫の多い日だった。それはやっぱりひきこもって家の中に居続けるより発見が沢山ある外の世界の方が刺激的で、疲れもするし、いろいろと複雑な気持ちにもなるけれども、それでも人と話すことのあるシーンに積極的に出かけて行くことがとても大切だ。こうしたひとつひとつの積み重ねが、自分の脳を刺激して新しい経験としてニューロンを活性化させてるのだ。自分が何をしているのか、何のためにここにいるのか、不安になっていたたまれない気持ちに覆われることもあるけれども、それでも家の中に居続ける限りは、そんな気持ちには一切ならずに、ただ単に憂鬱になるだけであるから、どんな酷い恥をかくような出来事に見舞われたとしても…それでも、そのリスクをとってでも私は外に向けて足を踏み出したい。

今日はできたと思うことの方がシーンの数だけで言えば多かったので、このこと自体を喜ぶべきだな。わたしが統合失調症なのかどうか、陰性で軽度なだけなのか、それとも、神経症的な不安からくる抑圧や社会不安なのか、その辺のことははっきり定義を自分にはめ込まなくてもいいだろうと思うことにする。なぜならば妄想性の問題であるということは、最近、客観的な意見をいただけたことで、より頻繁に自覚を促すものとなったこともあるし、なにより、対人恐怖症の症状が出る時の、わたしの心、あるいは無意識的なレベルでどのようなプロセスのパターンが実際に起こり、わたしの身体に影響を及ぼしているかということは、今での16年以上、いや20年近くに及ぶ経験の中である程度は、判断が付いている。わたしは、これらの対人関係における問題をどうしたいのか。答えはもちろん、これを他社の問題ではなく自己の問題であるとはっきり自覚して、わたしの中にある特定の対人関係における自罰的、回避的パターンを作り上げている心理の根元を明確に自覚し、意識的な理解を経た上で、それを実際の社会的なシーンの中において順化させていくなかで、わたし『本来』の在り方を再発見し、本当のわたしの人生を生きるための基礎を造ることに全く新しい一歩を踏みだすこと。例えばわたしの赤面症の問題であれば、その赤面症という症状が発生する心理的なプロセスにこそ、わたしの本来的な対人関係のための解決すべき問題が隠されているのである。身体に出てくるあらゆる症状は、無意識の声であって、その声は意識的な声よりも、もっともっと深い部分でわたしを構成しているであろう根元の声である。根元の声を無視したり、なかったことにしたり、回避し続けることは、わたしの本当の声や姿、コンプレックス、トラウマ、抑圧、BDDなどの神経症的症状の過去からの積み重ねである自動的な反射、そういったものから死ぬまで目を背けること。本当に癒し、回復し、育て上げるべき真の自己存在を消し去る努力に他ならない。この努力は、決して報われない。なぜならば、この人生をかけた欺瞞に、いずれの時点でもわたしの意識レベルでは気づいてしまっているので、それをなかったことにしながら、ある種のパラレルワールド的、運命的、博打的、あるいは自滅的な方法にてそのザマを覆い隠しながら消滅してやろうという企みへと繋がるのであり、それも大局的にみれはひとつの防衛機制であると思える。そして、人はいずれ死ぬが、死ぬときにわたしは真の自己存在を救い、向き合い、治療し、共に歩むことの決意から背を向け続けたことを、大いに後悔し、その意味を恐らくは死の間際まで考え、悔い、悩むに違いないのだから‼︎そんなことはわかりきっているのだ‼︎であれば、遅いか早いかだけなのだから、早くしろということだ。

20年という貴重な時間をひとつの症状の、ある程度までの寛解に捧げた。その間になにもしていなかったか、といえばそうではない。そうではないが、それらは極めて受動的な立ち位置からのアプローチではなかっただろうか⁈赤の姿勢から繰り出すあらゆる手、それも自罰的、自己卑下的な感覚からいくらか歪められた手であって、それらに対するレスポンスからさらに歪められ、もはやなにがなんだかわからなすなってしまっている。こういったこと全ては、徹底した受け身姿勢と自己を欺く防衛からなる歪められた手によって作り出されてきたものである。私の失った20年はまさに『欺瞞と防衛に捧げた20年』と言えるだろう。では、若さを失ってしまったいまの私がこの先目指すべき姿と、そのアプローチはどのようなものであるべきだろうか。ここでは常にはっきりと自己を述べたい。本音としては、無い物ねだりとなるであろう。つまり失ったことを認めないための防衛である。この苦しみには意義があって、それを昇華してなにかをなしたいとか、こういった悲しみを知るからこそできるなにか。あるいは、その貴重極まりない時間を失ったことと同等のなにかを得ようとする博打的な考えかた、あるいは自己破壊的な傾斜であったり、他人の不幸と自分の不幸を天秤に乗せて比較検討することなど、そういった補償や補填といった心理的な防衛?に傾いて物事を見据えがちになる偏向をまず自覚すること。それらの見積もりの上において、真の自己を高める道を探求しなければいけない。わたしは少なくともわたし自身についての真理の(心理の)探求をやめてしまうわけにはいかないのだ。こればかりは、生まれてしまったわたしの宿命であるから、逃れられないこと、向き合わなければいけないことである。新しい経験をすること。人との交流から刺激を受けること、一方的な立ち位置から人間を観察すること。そういった外交的なことがら一切はわたしは大好きであるはずなのだから、その事実から向き合わないわけにはいかない。その次に来るのが、何億と存在している人の目であって、その目にさらされるたびに引き出される真の自己の歪められた声。周りに合わせることや妥協すること、してはいけないこと、すべきこと、ありとあらゆる蔑みや侮蔑、人を見下しバカにした態度をとること、勝ち組と負け組、ヤリチンと童貞、愛される人と愛されない人、優れた人間と外見や知能においてあらゆる点で優れた人間より遥かに劣ったように価値判断される人間たち。社会的成功を手にする自己愛、社会との接点を希薄にしながら諦めと共に空想の世界に逃げ込むための自己愛、同じような自己愛でもことさら違って見えるものだ。すべては本来の自己を知り、その上で、本来の自己を生きるという決意表明ができるかどうかということに掛かっている。あなた、わたし、それぞれの未来を切り開くのは紛れもなくあなたや、わたしであって、だれか他の人ではないのだ。

私には限界があるし、できないこともたくさんあるが、心の声を丁寧に拾い上げて、耳をすませるようにしてあげることだけは決しておざなりにしてはいけないことである。その声にこそ、すべての答えがある。ある時は誰か他の人による刺激が契機になるかもしれないが、発せられるところはいつでもわたしのなかにある。現にわたし自身があらゆる他者を常にチラ見、観察、評価、比較、点数付け、といった勝手な判断を隙あれば瞬間的に行なっており、自動化した他者意識、肥大した自己意識ご手伝って、逆に他者からの目線に対して防衛的になる。もちろん、他人の心や感覚は読めないし平均化することも極めて難しい事柄であると思うが、わたしなりに客観視してみるに、相当に自己意識、他者意識が激しいであろうことは予想がつくし、当然そうあって仕方がないであろうともおもい同情する。そう。同情するのだ。あるときは夥しい群衆の中に自分の仲間を探そうと無駄な努力をしてしまうし、それよりも素早く敵を探し出して安心しようとする。敵。つまりわたしのほんのの部分が憎み嫌う人々を探し出すことで、そのリアルを感じ、戦闘し相手を抹殺するのだ。それにある種のカタルシスや満足感、ひいては自己のリアルを求める感覚が作用しているのかもしれない。吐き気を催し、赤面し、全身の発汗と痺れ、朦朧と疲弊から、生きるリアルを感じ、そして、このような状態にわたしを作り上げた憎き相手、大いなる恥をわたしにかかせた憎き敵を抹殺しなければならないのである。このような社会では、自己愛の殻に閉じこもるのが手っ取り早い対処であるかもしれないが、わたしはそれをもはや心底望まない。しかし、物理的に抹殺するわけにもいかないので、その反応すべてを敵の声ではなく、自己のうちなる真の声であって、それが仮の敵といった存在からエコーのように発せられているものであって、それは普段の日々の生活の中ではまず発見することのできない、本能的なSOSであり、自己の変革を切に促すような声であり、自己存在を哲学する上においてはこれ以上にないほどに貴重な経験、貴重な声であることを理解し、それらの声をわたしの本来性と、その本来性に則った生き方へと変換せしめるために必要な適応儀式であると考えるべきである。すべて、あらゆることがそうである。何度でも問いかけなければならない。それで、お前は何がしたいのかというふうに。人の目から逃れるということは決して人の前に出ないことではなくて、人と接し続ける中で自己の声を聞き続けることである。そうしなければだれも、どんなにわたしのことを理解しようと努力してくれる人であったとしても、わたしのことを正しく、あらゆるわたしのこと背景や現実、限界、苦手、同情すべきことなどを知らずに、いや知っていたとしても、まっさらなまま助言ができるものなどいないし、仮に正しいと思われる助言をわたしにしてくれたところで、わたしは決してまっさらなままでその助言を受けることはない。あらゆる結果的な責任を全てにおいて引き受けうるものは、何にもましてわたし自身の心の底から湧き上がってくる衝動や、好き嫌いといった極めて本能的シンプル、身体が心地よいと感じるもの、美味しいと感じるもの、好きと感じるもの、それらが答えである。誰かのために生きてはいけない。正しいも間違いも本当はなく、自分を偽って生きている人がいるか、いつも真の声に耳を傾けることをしている人がいるかというだけのことである。