うつなわたしのブログ

年々鬱々な日記帳

達成感

不安なような空虚なような気持ちになることもあれば、誰かと話していて落ち着きたいような、そんな寂しさを感じることもある。

誰かと会話することは刺激的だけれども、それが苦痛をもたらすこともある。あるいは、誰かのまた別の誰かに期待をしているのかもしれない。両親が亡くなって、親しい身内も全く世界から消え去ったとき、わたしは何処に身を落ち着けるのだろうか。あるいは、どこにも身を落ち着けることなくただフワフワと彷徨って朽ち果てることを知りながらヤケになるのか。決定的な安寧が欲しいのか。それはファムファタルか億のお金かあるいは巨悪になることか。どれも残念ながらわたしの分相応ではないようである。これまでの拙い人生を鑑み、則ってみれば自ずと答えは見えるだろう。

しかしながら、ファムファタルも億のお金も巨悪もすべてが幻想であるし、それらが手に入ったからといって満たされない渇きから解放される道理もなかろう。泥棒だと言われて、じゃあ泥棒になってやろうと、人のみかたを演じる人生のようなものもなかなか味があるのかもしれない。わたしという幾重にも分裂した"存在"を統合してみるのもおもしろいかもしれない。うまく統合できれば、その主人格はわたしをわたしの本来性のフィールドへと連れ出すかもしれない。そここそがわたしの生きる環境なのかもしれないし、そこにおいてわたしの生きるべき環境をかたちづくるやっとの条件がそろい始めるのかもしれないし、それらを見ることが許されるのかもしれない。

つまるところはワタシという過去存在、つまり、過去の発生から生育環境から、その理想論まで、過去そうあらしめられてきたわたしから、ワタシの正しい姿を構築し、その中において現実を生きるための目的や多角的な視点、多面的な視点を活かし、思慮と直感に寄って到達点へと導く努力をすることにこそ人生の妙味があるのかもしれない。

楽しみはお金で簡単に買うことができるが、深い充実感というようなものは、なかなかお金で買うことは出来ない。しかし、近視眼的な私たちはお金さえ満足に使えれば、あらゆる種類の満足を味わい、人としてありとあらゆる三千世界を享受できると思いがちである。

しかしそこには真の智慧と知性は存在する余地が少ない。なぜならば、人はお金の魔力に簡単に屈するからである。魔力に屈することとは、本来性のバランスを放棄することであって、足りない分を魔力に頼って補うことで本来性以上のものを手に入れることであり、その余分が加わった状態でどうやって物事を正しくみられるか疑問である。つまり、私たちは、よりお金があり、より賢く、より世界的な視野の人々、あるいは悪魔的な人々に決して勝利を収めることはないからだ。

ちいさな達成感が自己にもたらすことは、達成感を感じる能力が備わっているという事実を把握することである。それは、人との比較ではなく、自分の能力や視野の向上が可能であるということである。仕事や資格、人から見た際の評価とは何の関係もなく、自分の可能性の余地を知るという事柄ただまで一つである。

それらが証明するものは人より劣ってはいないということであり、人より特別優れているということでもなく、フレキシブルな脳がただ単にその活用を思考や志向に応じてあらゆる行動や選択に与える影響の量を調節しているに過ぎない。それに過ぎない事柄がわたしを、ひいては人生をわたしの主観において形作ろうとする。その事柄は大なり小なりの未来の形の差こそあれ、虚無の海の中のちいさな水泡ひとつである。みなそうである。