お金は幸せの条件か
もし億万長者であれば。
そんな妄想を何度となくしてきたけれども、結局のところ空想は空想に過ぎず、億万長者になったことがあるわけでもないので考えるだけ無駄である。
でも、1億円が手中にあったとしてなにができるだろう?
マンションを買って、車を買う。これで半分は消えてしまう。残りのお金で細々と生活すればなんとか十数年間は持つだろうか。
でも、結局のところマンションを買っても隣の高級マンションに憧れるし、自分より高い階層の住人に気をもむのだ。
車だって、マンションに合わせて買えば維持費だってばかにならない。綺麗な彼女を乗せるためだけに買うとしても、それでも幾ばくかの吝嗇の気持ちは付きまとってくるであろう。
つまり、満たされることがない。
どんなにお金があっても満たされることがないかどうかはわからないし、恐らく10億の金があればそんなこともないだろう。
10億の金があれば、まず一生の食い扶持には決して困らない。これほどの余裕は、他からは得られない。なぜなら大多数の人々はお金=生活のために仕事をしているからだ。
そして仕事というものは決して続けられると保証されるものではない。
生活の問題が恒久的に解決された、となれば大いなる心の安寧が手に入る。次に来るのは、人のため、家族のため、友達のために何かをする。社会のために貢献する、寄付をする、投資をするといった高次の次元のことがらであろう。
ここでまた欲が出て来るのが人間である。見栄のためにお金を使うようになるからだ。誰のためなどといいながら、そういう寛大な自分を他者に認めさせようとしているに過ぎない。
やらない偽善よりやる偽善という言葉があるけれども、問題はその心のことである。
つまり人はお金を自分が困らないほどに持ち合わせている場合でも、やはりそれで全てが満足、とはならないということである。
常にいまあるよりも多くを望む生き物なのである。常に、今この時点であるよりもより多くを、である。