うつなわたしのブログ

年々鬱々な日記帳

知性の余地

コンフォートゾーンという枠組みがいま非常に狭くなっていると感じている。

この快適さの空間、ストレスレベルの低い空間というのはとてつもなく強い引力を有していて、際限なく影響を及ぼしうる。

それらから抜け出して、適度な刺激やストレスを、定めた目標に向けて賢く利用するという積極的行為が常に求められているはずなのだが、それも思考のベールに包まれて迷路のように入り組んでいる。

私の大きな慢性的な問題としてあげられることに、やろうと思ったことを続けられないということがある。

思い付くことはあっても全く続けられないのである。生活的なレベルの事柄は思いついたとして、行動に移すまでは何とかは可能になるけれども、持続性が必要であったり、将来的に身になるようなものはてんでダメだ。

鬱のせいだと言ってしまうことは簡単だが、この問題にははっきりとした自分自身の意思決定が作用しているに違いない。

つまりアドラー的な表現をあえて使うならば、わたしはそれらのことをやらない決心をしている、ということになる。

そして、やらない決心をしているからこそ、世間的な言い訳を考えてはそれを上手く利用して、快適な空間に居続けようとするのだ。

そこに居続ければ、やろうとしている事柄が不可能であることも証明ができないし、結果的な可能性については自分の判断一つ、裁量次第だという余裕的視点における留保という態度になってあらわれ、安心できる。

そして、単に傷つきたくないのだ。

わたしは傷つくことを極度に恐れている。

絶対的に、自分をこの世の中で形成してゆくための基礎的なものが欠如、欠損している。

みなそれぞれ違った背景があるし、うけた過去の傷を上手く処理できないまま大人になり不全をかかえて、おどおどした性格のまま世の中との統合がなされずに蝕まれる一方の自己を抱えている人々もいる。みな各人が違った捉え方をし、違った状況におかれている。

これらのことを、単に勇気を出して解決しようというのは極めて繊細さを必要とする細工や、工程に関する無知ゆえに、その当人の頭では比較的簡単であって、努力の問題だと拙い想像を働かせてしまう軽率に似ている。

 

そして、これら多くの人々が善意に働かせるであろう軽率こそが、より問題をややこしくしていることに誰もが気づかない‼︎

 

傷つくことや人の視線や人のわたしに対する態度になにも感じないほど鈍感であるとか、わたしのすることに圧倒的万能感があって、全く人の意見など気にならないという強力なナルシシズムでもあればどんなによかったか。

繊細すぎる人間は誤解されるということを、嫌という程学んできたはずなのに。

普通にしようとして、普通ではないわたし、ボロが出るから怖いのだから、普通ではないわたしを演じるのがやはり、コンフォートゾーンなのである。

しかし、ダメなわたしは世間的、社会的にきみの悪い自己卑下にしか映らないし、いい年齢の男性がそういうそぶりを見せた時、社会は困惑することしかできない。相手が個人であっても、相手の問題に、お人好しにカウンセラーのように耳を傾ける人なんて、そうそういるものではないので、やはり、ダメな部分を主張するというのも、また空振りに終わりやすい暴露法である。

では、自然体でいながらにして、目的を達するにはどうすることが最善の策なのであろうか。

地道に社会に参加し続けること。そして、社会との関係性のなかにおいて、自己を再構築すること。そして、急がずに少しずつできることを増やしていくこと。これらを正しく自分の量を理解した上で知性を働かせて、思考を制御すること。

もし、病理をハンディとして捉えるならば、非常に分が悪い戦いを仕掛けようとしていることと似ている。それらに勝利するためには徹底した自己の管理が必要になる。それは、自分に必要な休息を取る事、対人との適切な距離を常に心がけることなど、地味で地に足のついた思考が必要になる。その上でもろもろの出会いや出来事に積極的な意味づけを与え続けるという試練がある。

わたしには大きな意味が、世界や個人に与えられてしかるべきだという先入観がある。だからこそ、無関心で冷ややかなこの時代において、余分にそれらの技術が求められるのだ。

技術ひとつにしてみても、最初から身についてあるものではなく、社会参加の中から自分に適した形のものを獲得してゆかなければならない。それはその人固有のものであり、どんな偉人のものを持ってしても代わりのきかないモノである。人生から降りるという生き方も選択肢のテーブルには上がっている。人間は生来性としてなにものにでもなることができる。 

全てのことは机上の空論という言葉に置き換えても良い。なぜなら、他人の中に自分の本質は備わっていないからだ。

他人の中にあるものは、自分を識るためのものでこそあるかもしれないが、決して自分の所有物ではない。

自分が生きとし生けるものであるためには、自己の本来性を見つめ、考え続けながら、それを獲得し、そして世界を見つめなければならない。そうでなくてはワタシの物語である必要性もないからである。

みな、何かの役割を演じている。

それがなんであれ、それらを内包しながら、それらのあらゆる問題が瑣末なことであることを確信して宇宙は運行を続けるのだから…。