うつなわたしのブログ

年々鬱々な日記帳

わびしい回想

20代の前半ごろは対人恐怖症の症状がピークを付けているような時期であった。バスや地下鉄、電車にすら乗ることもままならなかったし、あの強烈に眩しく感じられる照明だらけのスーパーにだって、よっぽど心身の調子が良くなければ買い出しにいくこともできずにいた。

 

友達と呼べるような奴は、1人か2人いたかなというくらいだったが、落ちこぼれ組という点では共通していたように思う。

もっとも私について言えば落ちこぼれる以前の問題で、そもそも義務教育ですら半分近く放棄していたわけであり、既に社会に出ることをまじめに諦めていたと思う。

 

惰眠を貪り、好きな時にゲームをするだけの生活が20代前半の時代にだけ訪れる特権的なものであることは、当時の私にだって薄々ではあるが予感として拙い頭蓋の内幕では諒解していたことである。

経済的には、当面の食費と、最低限の生活費はなんとか回せるほどのものではあったが、10年先の私は存在していないか、していても今のツケを背負ってなるようになると、わりかし楽観的に構えていた。

20代から30代にかけての10年という間において、ものごとや社会に対するわたしの感受性がある種の相関を示していることに気づく。

次第にそれらの世界や事象が意義を持たない曖昧なかたまりになり、色は薄れて光を放つこともなくなり、ただわたしとは全くなんの関係性もなくもはや茫漠とそこらに点在しているのみといった有様である。

そうした内的退廃と同時進行するようにして心的な病理が柔らぎ、気が狂いそうになるほどの強迫は身を潜め、対人関係における強烈なコンプレックスや過敏的な反応も抑制が効くようになってきた。

徐々にひきこもりから、社会に慣れていくにつれ、かつてのひきこもりの自分がどう感じて、何をしようとしていたのか、思い出せなくなってゆき、ひきこもりが大きな悩みのタネである現在の人に対する共感を欠くようになる。

かつてのワタシはもうどこにもいなくて、単なる細胞の総入れ替えが幾度となく行われた結果、何かしらの免疫機構であったり遺伝子がその働きでワタシをワタシであらしめようと、機械的な持続的な働きの結果、ここにいるだけなのではないだろうか。

ある音楽や匂いから、過去の特別な期間であったりある感情が思い出されてくることは、ごく稀にあるが、そういうワタシが居た事実を強く認識して安心できるのは、その一瞬のときくらいのものである。

 

あのとき、ここでこういう風に感じていたこと。あのとき、これからのことをこう予感していたこと。それらの味わいが今では消え去り、同じ場所、同じようなことを思い描いてみても、かつて感じたようなものはなく、ただ重くしんどい憂鬱で空虚な自分が、なにかを必死に思いかえそうとしているだけ…。

10年後に自分はいないだろうと感じていたことはこういうことだったのかもしれない。このように感じるもの、本来生を見つめることもなく、逃避し続けるだけの勇気もなく、現存在とイメージの狭間に宙ぶらりんに吊るされた非常に不安定的な存在である。

ここから紡ぎ出されるものは羨望や怒りといったたぐいのものではなくて、痺れるような抑うつと、思考鈍麻と、自暴自棄、自殺念慮である。

同時代の人々はどう感じてるかを考える。還暦を過ぎた人々はみな似たような仲間たちなのかと考える。若者たちには、いずれ消えゆく定めにはありながらも悠然と青い炎を燃やしているのだろうか…。

人間というものは、ある役割を信じて演じきることでしか生き生きと生き抜いていけないような、根本的な虚しさを内包する生き物なのかもしれない。

20代の頃、その時代のあるタイミングで、それが外圧によるものであっただろうか、自発的なものであったかは、偶然のいたずらであるが、うまくレールに乗るべきであったのだと思う。

それはコミュニケーションかもしれなかった。相互的なものであったから、そのタイミングを見逃してしまったのかもしれない。

実存的不安を抱えこまずに、世間の平均的な達観を身につけながら社会を生きていく力を獲得しうる、あるタイミングが必ずどこかの時点に設けられていたのだ。

普通は、特別探そうと労する必要もなく、自然とそのレールに飛び乗る、あるいは、自然と渡り継ぐものであるはずのなにか。

あらゆることが人生の流れのなかにあった。これからも続いていくだろう流れのことを考えると、正にいまある地点も大きな流れの中のある地点である。

うちなる世界が無力で儚いものであるとわかるいま、なにに向けて、何からの報いを期待していきてゆくことができるのだろうか?