うつなわたしのブログ

年々鬱々な日記帳

象徴的な死、スタートリビング。

ちょうどいいタイミングに、エンドカフェがあって、ちょうどいいタイミングで、blue noteがあって…。

 

行動原理が受け身なのは、他人の意見に覆われているからだ。自分で判断することが出来ないのは、自分の人生を創る勇気がないからだ。

 

きっかけのために、無数のノート、無数の本、無数の時間を費やした。けれども、私のノートは他人のノート、考えることは他人の考え、モチベーションも他人からのインスピレーション(そもそもインスピレーションなどされていない)であった。

これはつまり、他人を介したことになんら価値をもたないということがはっきりしているのである。人のアート、人の話、人の営為できっかけを作ろうとしても永久に始まらない。それどころか、他人の意思に絡め取られて、自分の本意が見えなくなる、聞こえなくなる。

 

ベースメントを無にしたのは正解。

無にして無を感じるならばなお正解。

有のために、あれやらこらやらと画策しかけたが、それらも実現しなくて正解だった。

 

なにせ、何もないのだから無なのは当たり前。さもなにかしらの有であるかのように振舞っていたということがわかっただけである。

 

ベースメントは無で良い。

息抜きと、調べ物のための設備であれば、それでいい。そこから始めていく。

象徴的な死の形になっている。

 

あの異常にしつこい電話も。

ちょっとしたしつこい電話も。

 

あの、悲しくなるような態度も。

どうでもよくなる感覚全て。

 

結果が分かりきっていることに無駄な割くことの、その誘惑を、それに意味をつけること、無駄だと知りつつ縋りつこうとする根性。

 

今日はちょうど、全て揃って役満の日。

なので、the endでblue noteはベストなタイミングである。きっかけは、これだ。

死の島

30を超えてからというもの、本当に何もする気力が無くなってしまった。あらゆることを楽しめず、また行ってもすぐ苦痛になる。昔はまた別の身体症状からくる苦痛であったが、今では単に苦痛がある。これさえなければ、みたいなものが結局のところは関係なくて、元々の性質に抗えないことが年々わかってくるのだ。もう今更、いまさら何を足掻くのかと。

感受性みたいなものも、よくわからなくなってきた。自分が何を好きで何が嫌いで、何を夢見てたのか。何も感じなくなってきてる。ただただすぐに虚しくなるだけで、ただそれだけだから、なにかに関わろうとか、やっていこうとか、少しだけ起こってもその気持ちを育てることができない、そんなことをしても意味がないと感じている。朝起きるたんびに気が滅入り、体を動かすのが苦痛で何度も何度も寝て、頭痛が始まる頃にようやくなんとか体を起こして、身支度をするが、それもしかし何のために。もうなにもしないのであれば目を開けたまま寝ていたらいいのではないのかと思う。もはや起きて活動したところでなにもないし、死人たちに蹴飛ばされるだけであるし、嫌な気持ちになるだけで、そう、不愉快になるだけじゃないか。それか、アホになるふりを頑張ってして、ワハハといくしかないではないか。何のためにそんなことを。もはやそうする意外には、脳がそうなってしまっているので、体さんにはもうどうすることもできないわけで。あらゆることが惨めにおもえるし、惨めなのはもう言うまでもなく明白であるのに、なぜいまさら惨めではない風なのか。どう考えても単に惨めであるだけの、どうしようもないクズなのに、なぜ、何かあるような気になってるのか。他者は関係ない、人なんていうものは存在すらしていない。欲しいものが見つからない、わからないと嘆いている。いつまでそういうことをするんだろう、まだ諦めがつかないのかな、まだ死人になれないのだろうか。なにをそんなに考えてるんだ、まだ挽回が効くなんて思ってるんだろうか。どうしたいのかもわからないのに?

なにかやろうと決めたこともできない、なにもかもしなければと考えているだけのうちに、あらゆることができないまま、単に終わりを迎えてしまう。終わる前になにかしたいと思うは思うけれども、なにもせずに終わりを迎えてしまう。みな、度胸と勇気、あるいは怖いもの無しの行動力で臨むことを成し遂げてから終わる。わたしは望むことを成し遂げられない。望むこともわこらないように思える、一体何なんだろうどうしてこうなってしまったのだろう。あらゆることの原因を振り返ると、問題はあったにせよツケもある。アドバンテージもあったが、それらを活用しなかった、他者に甘んじていた。偽りの安心感。偽りの信頼感。うその関係で気を紛らわせながら、なんとか生きている。そんなこと、なんにもなりゃしないのに、携帯もパソコンもどうせ使わないのだから誰かにあげて、捨てて、なんにもしなきゃいいんじゃあないだろうか。そんなものあったってなんにもなりゃしない、もちろんなかったら単に困ることが増えるだけだけれども、そもそも困っているわけでそんなものがあってもなんの助けにも救いにもならないわけで、いままでのすべての人間関係がそうだったみたいに、なんの意味もないまま自分がないままに単に周囲の影響だけに振り回されていきてきた、くだらない、つまらない、やる気がない、全部わたしのこと、周りの人たちのことなんて知らない、それらはそれらで生きているんであってそれはそれでいいんじゃないだろうか。いや、よくないのかもしれないけれども、結局みんな自分のツケと、自分が引き寄せたものの存在でしかないし、そうなることしかできない。人の都合にふりまわされるだけ、人の時間として動くだけ、対価なんてない、それは自分が望んだものを獲得したときに得られるもので、わたしはそんなものを手に入れたこともない。無欲なのではなく、本質的に無価値と考えおり、そのためにあらゆる労力、つまり金であったりツテであったり、そんなことに時間をかけるのは、いや、そんなことで努力している自分に対して自分が一番冷ややかにみており、当然そんな状態で、他者と真っ当に関われるべくもなし。宗教の方。情熱の方。信念の方。みなうざい、みな、うっとうしい。たしかにつよくあり、輝けるのは素晴らしいかもしれないが、狭い視野において、あわただしく、あくせくと。他人を不愉快にさせつつも、それで満足しきっているふうな鈍感さ。あらゆることにおいて吐き気を催すのだが、周りを見渡すとそんな輩しかいないじゃないか。もっもと、普通の市民はそんな輩をまともに相手にしていないわけで、もっと直接的な愛情、家族、単に利害、会社であるのがそれらのやり方であるから、まあちょっとした気晴らし、疲れ果てたときにコロリといってみるのもいいか、くらいのものであるから、いかんともしがたいのだ。人生の見方において、どれもその人となり、個性、経験からくる結果であるのだから、それをどうだああだというのも、仕方ないし、わたしがどうあるかで、その関わり方も変わってくるのであるから、そう、周りの人々は、そもそも生物というのはそういうもので、おのおのの自由と欲望をもってして、それを達成しようと励むもので、単に弱肉強食の論理がまかりとおるだけ。わたしのようなものは打ちのめされていなくなるのがまあ、普通の慣性であるわけだから、どうということもなく、そもそもこうすれば、ああすればというようなタチのものでもなく、そういうことが当てはまるにせよ、それもたまたまそうなったくらいのもので、なにか本質を揺り動かすような力、そういった法則があるわけでもない。あったとしても、わたしのこころにかなわない、そもそもどうだっていいのだから、何かが可能になったところで用いようがない。遊ぶことくらいならできる、遊ぶというのはそれ自体で完結しているのだから、できないことはないが、いや、突き詰めたら単にそれだけの話なのかもしれないが。

変われない

いまだにこんなことを言うのか、言い続けなければいけないのか。もう今年も半年を軽く過ぎてしまっているというのに。

どうしてもコミュニケーションをとれない。

仮説検証といったって、どうすればいいのか皆目見当もつかない。ただ言えるのは、わたしの視点は妄想よりで、それがスムーズなコミュニケーションを取れなくしているということかもしれない。どうしていいのかわからなくなってしまっている。気にしないふりをするのは無理だ。ストレスになる。しかし、気にしすぎる風もだめだ、自然体?しかし、言葉が見つからない。自然にしているということは、無気力とけんたい、憂鬱、無興味、出てくる言葉はネガティブな言葉ばかり。そもそもがだいぶ無理をしているのだから。第一に、外に出て行ってコミュニケーションなんぞ取りたくない、とってどうするんだというのもある。常に矛盾しているし、受け身な技しかわからない。どうしたら、誰とでも自然なコミュニケーションを取れるんだ。話しかければいいのか?こんにちはしかわからない。話を続ける方法がわからない。

かと言って無言でいるわけにもいかない。無言の人に話しかけてくれるような物好きはそういないし。人とコミュニケーションを取りたくて飛び込んでいるのだけれども、何もできない。あらゆる嫌なイメージに取り込まれて、その戦いに疲弊してしまう。違和感を感じている。常に。常に違和感。あと、居心地の悪さ。なんだろうこれは。どこにもいてはいけないような気がする。泣き出したい。世界のなかで活動していくのがもう困難過ぎて、頭がおかしくなりそうだ。みんなから馬鹿にされて、みんなから拒否されてる感じがするんだよなあ。被害妄想。行動とか、喋りとか、自分で変なのがわかるから、それで余計に焦る。変になるのは、そもそもが不自然なことばかりしているからで、不自然なことをしていることに気づいているのに、それをやめられないこと。コミュニケーションを取りたいですということを、言葉にすることができない。そこが下手すぎて、変な人になってしまうのだが、どうすることもできない。障害といえば障害かもしれないけども、ここをなんとかしたい。傷ついても仕方がないし、馬鹿にされても迷惑がられても避けられても致し方ない。それでも戦わなければ、なにかと。失敗して逃げ出すのは簡単だけれども、なんとか、少しでも、一つでもいいから問題点を突き止めて、次に繋げなければ。相手はコンピュータではないから、様子を見ながら、また一から出直しをしなければいけない。しかし、ハンディが多いな、人から距離を置かれても仕方がないようなハンディが多すぎる。もうだめだ。普通の人のコミュニケーションを目の当たりにすると、泣けてくる。みんなが普通にしてることが本当にできないということがわかってしまうし、それができないわたしを、こんなに年を取ってもなにもできないわたしを、もう一人のわたしがみていて、惨めな存在だと囁くんだからたまったもんじゃない。そんなことは言われなくてもわかっているつもりなんだって。わたしは普通の人のように人とコミュニケーションをとることはできない。それを目の当たりにすると、ドキドキしてしまう。やっぱり。やっぱりわたしは変なんだ、やっぱりみんなはそれができるんだ。表情を変えずに、笑顔でそれが出来てしまう。まるでなんの苦労も疑問もないかのように。好きとか嫌いとかの次元を完璧に隠しつつ、完璧に表向きの顔で笑顔を作って人と関わっていけるひとたち。そのあたり前の能力がなければ、あったとしても辛いのが社会なのに、わたしはもう今更何もすることができないようにもおえてきて、こんなに自分が無力で惨めだと思い知らされるとは。今までもそれの繰り返しだったといえば、そうだったと思う。ぬるま湯の人間関係に逃げ込んで引きこもっていれば良かったのだから。

生きているうちは。生きているうちはできることをしなければ。まだ、できることはたくさんあるから。体も動くから。普通でいられないことに傷ついているだけではいけない。普通ではないなら、普通ではないなりに、生きていくすべを、それも出来る限り自分にストレスのかからない方法で見つけていかなきゃいけない。そんななかで人との出会いがあったりもするだろうし。そう、人との出会いも、なんでもいいのではなくて、もっともっと、絞っていかなきゃいけない。自分がじゃあ、コミュニケーションのためにいったいどれだけの努力、犠牲を払ってきたのかまじめに考えたら。まったく怠けていて、やはり、馬鹿にされるのが落ちだわ。本気で変わる決意をした人なら、その道を極めるためには躊躇はないのでは、対策を練って何度でも挑戦するのでは。わたしは、結局のところ、ちゅうのちゅう、ちゅうのじょうから、動かないことを覚えてしまっていて、自分が主役になることをイメージしていないんだな。最初からあらゆることを諦めていて、外側から意見を言ったら、頑張るふりをしたり、傷つくふりをしたりして、なんなんだろう。

ああ

どうにもうまくいかない。

コミュニケーションを取れない。自然なコミュニケーションというやつが無理だ。どうしてもだめなパターンにはまってしまうんだ。

いやあ、こればかりはもうだめかもわからんね。なにせ、いまからフラフラになってまだするようなもんでもないんだわ。考えすぎてしまう。完全に恥ずかしいやつなんですわ。どうしたらいいんだろう。

こうなると、目的としていることも辛くなってしまう、面白くなくなってくる。苦痛。結局はコミュニケーションがすべてなんだなあ。

赤信号

インテリアのイメージも赤信号。

半端にしかならないことをしたところで、しかも明確な目的がないまま不明確なことをしたところで。刹那の満足のために物体を置くのはやめた方がいい。コミュニケーションが青信号なのに、また内側へと構築するのはどうして。内側でコミュニケーションがとれるようにするための明確なコンセプトもなしに。なら、物体はやめて、コト消費すべし。やはり、まだ消費することに対して根本的に麻痺している。いままではそれでなんとかなってきているから、麻痺していることに気づいていない。

すべきができないのに、妄想と空想だけ膨らむ状態。これらは全て赤信号。やろうと思えば渡って行けるのに、赤信号のせいにして、その場から動かない。そして、空想だけ膨らむ。

空想は空想。いろいろなモデルを見てきたいま、半端なそれで満足できるわけがない。満足できなければ、それらぶったいは結局、足を引っ張る、足枷のようなものになるのは、わかりきっていることである。そんな半端なものはなんの癒しにもならない。

本当の癒しは、半端さの中には落ちていない。それは、コミュニケーションのなかからリアルなイメージで迫ってくるもの。であれば、赤信号は赤信号とわりきれる、いままでの小規模なスペースと、ものたちで癒しを得るのが1番賢いのかもしれない。

なんのために

いきていくのか。

なにをしなかったら後悔するのか。

人間にはどういきたらよいか、という答えが与えられていないが、どのようにいきていくかをある程度までは選択することができる。 

どう、のまえに、なんのためにを問わなければ、みずからにも、誰かにも、存在を示すことができなくて、存在自体に意味がなくなってしまう、軽くなって、空気のようになってしまう。ただ存在するだけ。それでもいいのかもしれないが、うちなる自己がそれを容認しない。

もっともっとシンプルにしたいのはなぜか、その逆にもっもっと複雑にしたがるわたしもいて、気分によってふらふらとして、定まらない。どちらにもメリットがあるんだけれども、なにせ多くを望んでしまうのがよくないのかもしれない。

どうしていこう。なんのためにどうすればいいのだろう。なんのためにどうするかがわかったら、そんなに安心することはないかもしれない。ただ漠然と時間が身に染み込んでいくのをゆるしていられるような状態ではいまはなくなってしまったようで、あれやこれやと居心地の良さのなかに没入したがるのだけれども、まえほどにはわたしにとって融和的ではないのはなぜだろう。なぜだろう。なぜ?

そもそも、融和的だったのだろうか。

いぜんのわたしがどんな風だったのかも、よくわからない。結構違った風だったのかもしれない。もちろん、まえからもやもやしたものは抱え込んでいたから、そのもやもやがいよいよ鮮明化されてきたということなのかもしれない。そのもやもやはなんだろう。単なる劣等感コンプレックスだろうか。それとも、べつのなにかなのかなあ。それはお金で解決できることなのだろうか。やりがいとか、そういうことなのだろうか。からだのもやもやが鮮明化されてきたことは、現実の世界に触れることが増えたからだとおもう。その中でこのからだと意識が引き延ばされたり萎縮したりしながら新たにまとまってきた。それは、なんなのか。だからなんなのか。人と知り合うことがなんなのか。なにをしたら満足なのか。人とどうしたいのか。なにもわからないまま、時間だけがゆったりと確実に前進し続ける。時間は素晴らしい。これほどまでに確たるものはないし、わたしが年を重ねていき、さまざまな可能性から引き離されて行っていることもまあ時間通りに確実で、それにあらがうことが、それなのだろうか。じかんに抗わずに、ではどうすれば。それは、あたえられている時間の中において、みつけること。どうして、なんのために。そのためには、どうしたらいいのか、なんのために…?

抵抗線

時間は2時50分をさしている。器は狭められてゆく。解き明かされるもの、気づかないで待ち続けるもの。転換点は過ぎている。今一度、振り返るべきである。いままでの法則を捨ててゆくことで、この時間の謎にせめてもの抵抗ができるのかもしれない。汽笛は遠のいてしまった。数もあまり聞こえなくなった。ここからは新しいものの見方のためのより鋭い測りを用いていかなければならない。その覚悟をするための猶予である。散り散りになっていったものたちも、それぞれに公式の書き換えを迫られているだろう。それに深く身を沈めて、己をよく見て、時間がもたらしてきたものと、使い物にならなくなった武器を定め、それを今一度みずから破壊し尽くして再起を図る勇気、覚悟。それらに気づかないふりをしながら刻々と移ろい、黄昏に染まりゆく幻想の美しさに耽りながらその身を差し出す準備に取り掛かるのも、また一つの到達点であり、各々の選択には先を静かに見据える落ち着きが添えられている。後半戦を戦っていける力が欲しいのなら、風に乗れるだけの新たなエネルギーを自然から取り込んでいかなければならないだろう。インスピレーションが与えられたことに感謝しなければならない。